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コラム Nikkan Olympic Column
コーチの流儀 五輪コラム

コーチの流儀

 五輪に向けて日々闘っているのは選手だけではない。スポットライトを浴びるアスリートの背後には、必ず優れた指導者たちがいる。ロンドンの表彰台を目指し、さまざまなアイデアを持ち、独自の工夫を凝らしている。そんなコーチたちの指導哲学に迫る。

競争原理と人間力で育成/渡辺高夫氏

女子5000メートルで世界陸上出場を決めた絹川愛(左)を祝福する渡辺高夫コーチ
女子5000メートルで世界陸上出場を決めた絹川愛(左)を祝福する渡辺高夫コーチ

 08年北京五輪の男子マラソンで、24歳で亡くなった日本育ちのサムエル・ワンジルさん(ケニア)が金メダルに輝いた。そのワンジルさんを宮城・仙台育英時代に指導したのが渡辺高夫氏(64)だ。現在は、昨年の世界選手権(韓国・大邱)女子長距離代表の絹川愛(22)の専任コーチとしてロンドン五輪出場を目指している。いち早くクロカン練習を導入し、96年アトランタ五輪男子マラソン代表の実井謙二郎も育て上げた名伯楽。その指導のベースにあるのは、既成概念にとらわれない柔軟な思考とバランス感覚だった。【取材・構成 佐藤隆志】

 昨年の日本選手権、女子5000メートルで絹川が優勝を遂げた。その傍ら、にこやかに寄り添う渡辺コーチの姿があった。絹川は08年から原因不明のめまいに襲われ、真っすぐ歩けなくなった。そんな絹川の体を支えながら、筋肉を落とさぬよう一緒に歩いた。

 渡辺氏 本当に介護だった。俺も貴重な経験をしたよ、2年半。絹川は普通の人間として生きられるの? って思ったことが何回かある。人間力というものを盛んに話して「つないだ」というのが本音だ。中学卒業して仙台に連れていく時、「あなたはオリンピックに出られる。出すまでは責任持つ」って言ったからね。

 高校の教員として全国高校駅伝で実績を残し、実業団では五輪選手も育てた。だが陸上コーチよりも、教育者としての自負が強い。だから絹川を見捨てず、とことん面倒を見た。

 渡辺氏 俺は体育の先生じゃなく、政経の先生だからさ。体育の領域だけでスポーツをやったり、人間育成するのは嫌いなんだ。

 仙台育英時代、四国八十八カ所巡礼の「お遍路さん」にも挑んだ。毎年2月、入試で1週間ほど休暇となる期間を利用し、部員全員で寺を巡った。03年に一番札所からスタートし、5年かけて全行程を回った。選手は入れ替わるため途中区間だけの行脚となるが、渡辺氏は完全踏破した。

 渡辺氏 いろんなことを感じさせたくてね。どうしてもスポーツだと、トレーニングばっかりに目が行ってしまう。それを食い止めるために、どうしても人間本来の本能を引き出したい。そこでこれがいいなって。

 おじが三井物産社長だった縁もあり、学生時代から経済人、政界人との交流があった。陸上の傍ら、大東文化大では経済学にのめり込んだ。「経済学の巨人」と呼ばれるガルブレイスを研究し、その理論に傾倒。自然と物事を広い目でとらえるようになった。

 渡辺氏 大量生産、大量消費とか、巨大企業が現れたらまた巨大企業が出現するという理論を勉強した。だから強い選手が現れたら、対抗して強い選手が現れる。ケニアから留学生を招いたのもそう。競争が生まれて、進歩・発展がある。スポーツも同じことなんです。1人を強くしても世界では通じないんだ。

 そんな競争原理の考えに基づき、迎えた1人がワンジルさんだった。そのワンジルさんには「ガマン」を説いた。日本の生活様式など、さまざまなことに「我慢」という表現を用いた。それが五輪の舞台で結実する。

 渡辺氏 ケニア人は時間をかけてゆっくり走ることが不得意。はだしで生活していた者を文明社会に慣れさせるには、まず何か1つ、不得意とするものをマスターさせなきゃいけない。それは何かというと、ゆっくり走るランニング。もともとスピード能力は高いからゆっくり走ることで、スピードは増すんだと教えた。

 北京五輪のレース前、ワンジルさんは渡辺氏にアドバイスを求めた。「10キロまではいくら余裕があってもガマンだよ。無理しちゃいかん。30キロから自分の力を使え」。ワンジルさんはその指示を守り、五輪史上最高の2時間6分32秒で優勝した。

 陸上指導の上で大事にするのはバランスだ。体軸をしっかりつくり、重心移動がスムーズにできれば速く走れると言う。そのため整地よりも、野山を走るクロスカントリーの練習を好んで取り入れ、成功した。

 渡辺氏 陸上もそうだけど、人間としてもバランス感覚が大事。物の見方、考え方が悪ければ、人間の力は封印されちゃう。だから勉強する姿勢を持っていれば、スポーツは生きてくるという持論があるんだ。

 陸上コーチでは終わらない。若者文化にも目を向け、40歳以上も違う絹川とコミュニケーションを図る。柔軟な姿勢とバランス感覚。だからこそ、暗やみをさまよった絹川を出口へ導けた。そして今、二人三脚で向かう先はロンドンだ。

 ◆渡辺高夫(わたなべ・たかお)1947年(昭22)8月10日、福島県船引町(現田村市)生まれ。日大東北工(現日大東北)-大東文化大。大学卒業後は埼玉栄、実業団のミヤマ(現レオパレス)、日清食品の陸上部監督を歴任し、99年から仙台育英陸上部監督。08年に定年退職し、現在は女子長距離・絹川愛の専任コーチ。全国高校駅伝では埼玉栄を1回、仙台育英を6回の優勝に導く。

(2012年3月20日付、日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月11日12時54分]



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