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コラム Nikkan Olympic Column
負けない!日本~スポーツ100年~ 五輪コラム

負けない!日本~スポーツ100年~

 金メダルのドラマが感動を生み、日本人を勇気づけた。日本のスポーツを統括する大日本体育協会(現日本体育協会)創立は、101年前の1911年(明44)。日本の五輪参加もロンドン大会で100年となる。逆境をはね返した金メダリストの偉業を振り返る。【編集委員 荻島弘一】

世界を震撼させた「またさき」/レスリング笹原正三

メルボルン大会で金メダルを獲得したレスリングの笹原正三
メルボルン大会で金メダルを獲得したレスリングの笹原正三

<1956年メルボルン五輪>

 56年メルボルン大会、笹原正三(82)は圧倒的な力で金メダルに輝いた。レスリングのフリー・フェザー級、最大の武器は相手の背後から片方の足を決め、上半身をねじるようにして締め上げる「またさき」だった。日本国民の期待の大きさは日本選手団の旗手を務めたことでも分かる。その期待に見事にこたえた。

 笹原 最初から金メダル以外は考えていなかった。取らなくてはと思っていたし、取れると思っていた。ヘルシンキ大会で大学(中大)の先輩だった石井庄八さんがレスリング界初の金メダル(フリー・バンタム級)を獲得していた。この人にも取れるなら、オレも取れると思っていた。

 もちろん、絶対的な自信の裏付けはあった。それが「またさき」だった。地元東京で行われた54年世界選手権でトルコのシットに決められた。終了間際のタックルで勝利して優勝まで突き進んだが、その苦痛が忘れられなかった。後に自身の代名詞となる技との出会いは、この時だった。

 笹原 オリンピックで勝つには、何か絶対的な技を持ちたいと思っていた。だから、この技を研究した。大学の後輩を相手に試行錯誤を重ねた。足の入れ方を変え、逃げられないように角度を工夫した。足を入れてからはテコの原理で大きな力が加わるようにした。完全に自分のものにするまでに、3カ月かかった。

 英語が堪能で、中大入学前には米駐留軍の文書管理の仕事をしていたほどだから、原書も読みあさった。ビデオなどないから、本で見たやり方をまねて工夫するしかない。それまでに剣道や柔道、合気道の心得もあったから、それらの動きも取り入れた。確実に決まって、相手の股関節に強烈な力を加える「またさき」が出来上がった。

 笹原 完成した時は、これで金メダルを取れると思った。翌年の全日本選手権で初めてやったら、相手が痛がってね。実は「またさき」という名も、自分で考えたものなんだ。記者から技の名前を聞かれ「相手のまたを裂くような技、またさきだ」と答えた。

 武器を手にした笹原は、世界に殴り込みをかける。当時レスリング協会会長だった八田一朗は、積極的な国際交流を奨励した。今のように交通の便はよくないし、協会には金もない。貨物船で海を渡り、ヒッチハイクで移動、現地ではホームステイをした。「またさき」を披露して、世界の強豪を震え上がらせた。

 笹原 メルボルン大会前は6カ国、半年ぐらいは海外遠征だった。世界中の同じ階級の強豪と、3、4回ずつは試合をした。試合が終わると、相手は股間を押さえて顔をゆがめ、トイレに駆け込んだ。心配だったのはケガをさせること。本番前に「危険すぎる」と禁止になっては元も子もない。だから、いいかげんに、少し力を緩めながらかけていたんだ。

 「ササハラズ・レッグシザーズ」に世界は震え上がった。五輪本番ではこの得意技で快進撃。またさきを恐れる相手に、次々と技を仕掛けていった。相手との駆け引きや間合いは、山形商時代に取り組んだ剣道や柔道が役立っていた。

 笹原 レスリングでは相手の目を見て動きを見極める。これは剣道と同じだった。私の後にも多くの金メダルを取って「日本のお家芸」といわれたけれど、もともとレスリングは日本人に合っているのかもしれない。剣道や柔道の下地があるんだから。

 08年の北京五輪まで、日本が獲得した金メダルは夏冬合わせて132個。笹原の金は日本人18個目、レスリングでは石井に次ぐ2個目だった。その後、レスリングは22個の金メダルを獲得したが、男子は88年ソウル五輪を最後に手が届いていない。東京五輪でコーチを務め、その後も国際連盟副会長、日本協会会長とレスリングの普及と強化に尽力した。だからこそ、日本の男子レスリング低迷を憂い、奮起を期待する。

 笹原 ロンドンでは何とか男子に金メダルを取ってほしいね。最近は銀でも銅でも褒められるけれど、金でなければ勝ったとはいえないから。

 現役時代、1日24時間を強くなるために使い、自らに厳しい練習を課してきた。現在82歳、それでもレスリングへの情熱は衰えていない。今願うのは、世界に恐れられる日本レスリングの復活だ。(敬称略)

 ◆56年メルボルン五輪レスリング・フリー・フェザー級 当時はスタンド6分、グラウンド3分×2ラウンド、スタンド3分の計15分制(現在は6分)。羽田空港出発時に「メルボルンを死に場所と考えて…」と決意を語った笹原は、強豪ぞろいのブロックに入った。1回戦から3連続判定勝ちし、4回戦では前回大会金メダリストでまたさきの「師」でもあるシット(トルコ)を得意のまたさきで退け、決勝リーグに進出。初戦は負傷したペンティラ(フィンランド)に不戦勝ち、優勝決定戦ではメイビス(米国)を3-0で下した。ウエルター級で優勝した中大の後輩、池田三男に肩車されて金メダルの喜びを爆発させた。

 ◆笹原正三(ささはら・しょうぞう)1929年(昭4)7月28日、山形市生まれ。50年に21歳で中大法学部に入学してレスリングを始め、54年の世界選手権、56年のメルボルン五輪で優勝。引退後はJOC副会長など国内外スポーツ界の要職を歴任した。

(2011年11月22日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月16日16時14分]



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