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コラム Nikkan Olympic Column
負けない!日本~スポーツ100年~ 五輪コラム

負けない!日本~スポーツ100年~

 金メダルのドラマが感動を生み、日本人を勇気づけた。日本のスポーツを統括する大日本体育協会(現日本体育協会)創立は、101年前の1911年(明44)。日本の五輪参加もロンドン大会で100年となる。逆境をはね返した金メダリストの偉業を振り返る。【編集委員 荻島弘一】

78キロで無差別級の全日本制覇/柔道・岡野功

64年東京大会、20歳の岡野功は中量級で金メダルを獲得
64年東京大会、20歳の岡野功は中量級で金メダルを獲得

<1964年東京五輪>

 柔道が五輪競技となった64年東京大会、20歳の岡野功は中量級で金メダルを獲得した。これが「昭和の三四郎」誕生のきっかけだった。多くの選手にとって五輪はゴールだが、岡野は違った。岡野が伝説となったのは、本来中量級(80キロ以下)ながら2度全日本選手権に優勝したから。体重無差別への思いを強くしたのが、無差別級決勝で神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れた時だった。

 岡野 会場は静まり返って、異様だった。自分の金メダルもかすんだ。やっぱり柔道は無差別級。もともと、小柄でも大きな者を投げられることが魅力で始めた柔道。無差別級で勝たないとダメだと思った。

 翌65年、岡野は初めて体重別で行われたリオデジャネイロ世界選手権の中量級でも圧勝する。すでに、この階級では国内外に敵はいなかった。岡野は大会を振り返り、あのヘーシンクと対戦する可能性があった驚くべき事実を明かした。

 岡野 中量級が終わった後、コーチから「最終日も用意をしておけ」と言われた。無差別級にも出ろということ。体は動いたし、技も切れていた。自分で調子がいいのが分かった。これでヘーシンクと試合ができると思った。やってみたいと思っていたからね。

 171センチ、78キロの岡野にとって、198センチ、120キロのヘーシンクは試合をしたい相手だった。柔道家として倒したい相手だった。しかし「夢の対戦」は実現しなかった。ヘーシンクは重量級で坂口征二らを破って優勝。「全日本王者(坂口)に勝ったから」と引退を宣言し、無差別級は出場しなかった。結局、岡野も無差別級には出なかった。

 岡野 ヘーシンクとは対戦できなかったけど、気持ちは決まっていた。もう中量級は出ない。無差別級に専念しようと。目標は、全日本選手権になった。

 岡野は67年に目標を達成する。100キロ以上の強豪を次々と撃破し、全柔道家の頂点に立った。翌68年はケガもあって準優勝に終わるが、69年に王座を奪回。直後に現役を引退した。切れ味鋭い背負い投げで「柔よく剛を制す」柔道本来の姿を見せただけに「もし岡野がヘーシンクと対戦したら」と思うファンは少なくない。日本の悲願「打倒ヘーシンク」が果たせたのではないかと。しかし、強気で知られる岡野は笑いながら意外な言葉を口にした。

 岡野 勝てなかったんじゃないかな。たぶん。実は引退して数年たってから、ヘーシンクの自宅に1カ月ぐらい泊まった。道場でけいこもした。内容は秘密だけど、通用する技もあったね。ただ、お互いに引退して時間がたっていたから。試合になったら違うし。

 中量級に決別し、無差別級にこだわった岡野。その過程では苦労もあった。無差別に慣れるため重量級の試合に出たが、普段の体重は78キロ程度。80キロないと資格はない。試合前には「増量」の苦しみも味わった。

 岡野 試合前日はとにかく食べて、飲んだ。気持ちが悪くても、トイレを我慢して計量に臨んだ。体重が80キロに足りないと、パンツの中に重りを仕込んだ。

 無差別級で勝つことは柔道家なら誰でも夢見るもの。90年には古賀稔彦が75キロで決勝まで進んだ。「平成の三四郎」は、柔道の醍醐味(だいごみ)を存分に見せてくれたが、決勝では小川直也に敗れた。岡野は古賀に同情しながらも、今後も中量級以下の全日本覇者は出ないと断言した。

 岡野 古賀は頑張っても優勝は難しかった。重量級に専念すれば可能性はあったけど、現実は無理。今のように細かく体重別になると、体重差のある相手と戦えない。同じ体重なら中途半端な技もかかる。でも、大きな相手だと前後左右に動いて相手を崩し、左右から技をかけないとダメ。力が強い相手なら、その力を利用しなければ。体重差があるからこそ、複合技、連絡技が身につく。柔道本来の技が身につかない今の選手はかわいそうだね。

 無差別級で強さを見せた岡野にとって、体重別の五輪は大きな意味を持たなかったのか。かつては「通過点」と言い放ったこともあった。しかし、金メダルから48年、正直に告白した。

 岡野 精神的にあれほど大変な大会はない。世界選手権の日本代表は2人。負けても、もう1人いる。全日本は負けても自分の責任になるだけ。オリンピックは違う。周囲の期待がすべて自分にかかる重圧。その大会で勝ったことは自信になった。その後の柔道人生にとっても大きかった。

 20歳で五輪金メダリストとなり、25歳で引退。無差別級が主流だった時代を駆け抜けた78キロの「昭和の三四郎」。全日本選手権2度制覇の岡野にとっても、五輪は唯一無二の大きな大会だった。(敬称略)

 ◆64年東京五輪柔道中量級 20選手が参加して行われた。岡野は準々決勝まで危なげなく一本勝ちを続けて、準決勝で韓国の金義泰と対戦。「事実上の決勝」と呼ばれた試合で序盤から攻め続け、得意の背負い投げを連発。しかし、4月に痛めた右膝負傷の影響もあってか、なかなか決まらない。試合は判定にもつれ込んだが、右小外掛けで金を横転させたことと終始攻め続けたことが評価されて岡野の勝利。決勝ではホフマン(西ドイツ)から横四方固めで一本勝ちを収め、軽量級の中谷雄英に続いて金メダルを獲得した。右膝負傷のため立ち技から寝技主体にスタイルを変え、つかんだ栄光だった。

 ◆岡野功(おかの・いさお)1944年(昭19)1月20日、茨城・龍ケ崎市生まれ。竜ケ崎一高から中大法学部に進み、64年東京五輪中量級優勝。67、69年全日本選手権優勝。69年引退後は正気塾を設立、流通経大教授となり、各大学でも後進を指導した。

(2011年11月29日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月17日16時29分]



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