「初めて自分で自分をほめたいと思います」
ゴールした有森裕子はインタビューに答える
<女子マラソン・有森裕子~1996年アトランタ五輪~>
1996年アトランタ五輪の女子マラソン、有森裕子は持てる力を出し尽くして3位でゴール。直後の取材ゾーンで「初めて、自分で自分をほめたいと思います」と言った。バルセロナの銀に続くメダル獲得とともに注目を浴びた。バルセロナ五輪後、チームや監督との方向性の違いに悩み、相次ぐ故障で走ることさえできなかった。94年に両足かかとを手術した。復帰は銀メダルから3年後の北海道マラソン。復活への物語が、感動を増幅させた。
有森 今でも、このフレーズが出てくるたびに言われますね。嫌じゃないですよ。うれしいです。でも、もともとは私のものじゃない。高石ともやさんが読まれた詩だったんです。
話は有森が高校生だった84年にさかのぼる。都道府県対抗女子駅伝の開会式、伝説的フォークシンガーの高石が一編の詩を読んだ。現在70歳になった市民ランナーの草分けは、当時京都陸協の審判員。2回目の大会で、参加選手を励ますために朗読した詩だった。
「ようこそ、京都へ来られました。ここまで来るのに一生懸命、頑張ってきた自分も、苦しんだ自分も、喜んだ自分も、全部知っているのは、あなた自身だから。ここに来た自分を、人にほめてもらうんじゃなくて、自分でほめなさい」
岡山の就実高2年だった有森は、同県の補欠選手として大会に臨んでいた。後輩たちの荷物持ちに揺れていた心、そのど真ん中に詩が届いた。有森は、練習ノートに全文をメモした。
有森 高石さんのことは知らなかったけれど、詩を聞いてボロボロと涙が出てきた。私は何をやっているんだろうって。でも、今の私には言えない。補欠なんだから。自分をほめることはできないと。その時、いつかこれを言える選手になろうと思ったんです。
以来、心の奥で支えにしながらも、封印してきたフレーズ。思い出すきっかけは、アトランタ五輪直前の米ボルダー合宿だった。
有森 あまり調子がよくなくて、テレビのインタビューにも「良くも悪くもないです」なんて、素っ気ない答えをしたんです。知り合いの音声スタッフさんに「有森さんは十分頑張ってる。もう少し自分で良しとしてもいいんじゃない」と言われてハッとした。でも、今は思えない。良しと思えるレースをしようと。
30キロ過ぎ、第2集団を飛び出した。トップのロバを追った。競り合ったエゴロワには離されたものの、ドーレの追撃をかわして3位でゴールした。力を出し切った、満足のいくレースだった。「メダルの色は銅かもしれませんけど…、終わってから何でもっと頑張れなかったんだろうって思うレースはしたくなかったし、今回はそう思ってないし…」。そして沈黙した。
有森 インタビュアーだった藤井さん(NHK藤井康生アナウンサー)が、次の言葉を待ってくれたんです。その時、あれが出てきたんです。もし、何か声を挟まれたら、出てこなかったですね。藤井さんが引き出してくれた。もちろん、事前に準備なんてしていませんから(笑い)。
高石はこのコメントを聞いて「日本人にもこういう考えの選手がいるんだな」と思ったという。「自分をほめたい」のもとは、高石が米国に渡った時、ボランティアの女性から聞いた言葉。十数年後に詩にして、駅伝の開会式で読んだ。今も音楽活動とレースを続ける高石は有森に感謝する。
高石 有森さんに話を聞いた時は、うれしかったですね。自分の言葉が伝わっていることが。有森さんに「歌の文句で人生変わるかね」って言ったら、きっぱり「変わります」って。彼女には励まされるし、教わることも多い。言葉が有森さんを通してどんどん成長した。言葉の力ですね。
高石は古いノートから自分の詩を探して涙し、99年にCD「自分をほめてやろう」を出した。今も有森は高石のコンサートにゲスト参加するなど、1つの言葉を通して交流は続く。
有森 実は、一部の新聞は「自分をほめてあげたい」になっていたんです。それを見た人からは「あげたい、なんておかしい。何を言っているんだ」と、批判されたんです。「ほめたい」と言ったんですが。
有森の4年間を知る記者の「ほめてあげたい」という気持ちが、本人の言葉に重なったのだろう。それほど、連続メダルの道は険しく、苦しかった。だからこそ名言として残った。
高石が受験戦争を歌った「受験生ブルース」の時代は、はるか昔。「人と比べることに幸せはない」(高石)という考え方が日本人に生まれた時代だからこそ「自分をほめたい」が受け入れられ、新しい価値観として定着した。この年の流行語大賞に輝いた言葉は、有森のメダルとともに「流行」に終わらず長く生き続けるだろう。(敬称略)
◆有森裕子(ありもり・ゆうこ)1966年(昭41)12月17日、岡山市生まれ。就実高、日体大時代は無名も、リクルート入社後に急成長。マラソンで92年バルセロナ銀、96年アトランタ銅メダルを獲得。07年に競技を引退、現在は日体大客員教授も務める。
(2012年2月23日付日刊スポーツ紙面より)