「大和魂を世界に示したかった」
東京五輪で圧倒的な強さで金メダルを獲得した渡辺長武(1964年10月14日)
<レスリング・渡辺長武~1964年東京五輪~>
64年東京五輪のレスリングフェザー級決勝、渡辺長武(おさむ)はソ連のホハシビリを一方的に攻めた。優勝の瞬間、超満員にふくれた駒沢体育館のスタンドで日の丸が揺れた。金メダルを下げた渡辺は、胸を張って言った。「決勝は、勝てばいいと思って慎重にやった。そして、大和魂を世界に示したかった」。
渡辺 「大和魂」という言葉は、常に頭の中にあった。もともと宮本武蔵が好きだし、サムライへの憧れがあった。地元で、応援も多い。期待されているんだから、勝たなければと思った。金メダルが決まった時は、うれしいよりもホッとした感じだったよ。
圧倒的な金メダル候補だった。62、63年世界選手権連覇、60年から国内外で負け知らず。注目度も際立っていた。この大会で金メダル5個を獲得した日本レスリングだが、主将でエースの渡辺は別格だった。大会5日目の10月14日、渡辺とともに金メダルに輝いたフライ級の吉田義勝、バンタム級の上武(現姓小幡)洋次郎は「注目は渡辺さんに集まったから、こちらはノーマークで気楽にできた」と口をそろえた。
渡辺 テレビやら新聞やらで、ずいぶん引っ張り回された。僕と重量挙げの三宅(義信)さん、体操の遠藤(幸雄)さんの3人は金メダル確実と言われて、いつも一緒だった。でも、嫌ではなかったし、やる気にさせられた。絶対に金メダルをとる自信もあった。
「日本人は五輪好き」と言われるが、注目度、期待度は今とは比べものにならないほど大きかった。日本全体が沸き、国民の目が注がれた。64年1月1日、日刊スポーツの1面も「トウキョウへ、走る」の見出しに、試運転中の新幹線を背に走る渡辺、三宅ら金メダル候補の写真だった。
渡辺 高速道路ができて、新幹線が走った。東京が変わっていった。青山通りなんか、いきなり道幅が倍になったんだ。驚いたと同時に、日本人はすごいと思った。そんな日本人の強さを世界に見せたかった。だから、大和魂という言葉が出てきたんだと思う。
五輪代表決定の日、八田一朗総監督は選手に対し厳命した。「これだけ期待されているんだ。必ずメダルをとれ。負けは許さない。負けたら絞首刑だ!」。もちろん、選手たちのプレッシャーは相当なものだったはずだ。特に、金メダル確実と言われた渡辺は。
渡辺 自信はあった。でも、試合前夜は眠れなかった。2時間ごとに目が覚めたよ。当時、村田英雄が好きで「柔道一代」の「柔道」を「レスリング」にして歌っていた。「レスリング一代」を口ずさみながら夜が明けるのを待った。
渡辺が1試合勝つ度に、普及し始めたばかりのカラーテレビの前で歓声が上がった。映画「三丁目の夕日 ’64 」で主演の堤真一が叫んだ「アニマル勝ったあ」。本場米国でついたニックネーム「アニマル」が、日本でも渡辺の代名詞になった。68年メキシコ五輪前には、渡辺をモデルにしたテレビアニメ「アニマル1(ワン)」もヒットした。
渡辺 若い人はアニマルっていうと(浜口)京子ちゃんのお父さん(アニマル浜口)だと思うだろうけどね(笑い)。実は、浜口が入った国際プロレスの吉原社長に「リングネームにアニマルを使いたいけど、いいか」と聞かれた。別に権利を持っているわけじゃないから「いいですよ」と言ったけど、今はあっちの方が有名になっちゃったね。
中大卒業後2年間は就職もせず、日本協会が借り上げた青山のアパートで生活した。すべては地元五輪で金メダルをとるため。期待に応えて国民的ヒーローになり、電通に入社。その後競技から離れ、事業などでも挫折を味わった。それでも88年ソウル五輪出場を目指して現役復帰。夢はかなわなかったが、24年ぶりの五輪挑戦が話題になった。
渡辺 レスリング仲間がサポートしてくれたし、やっぱりレスリングが好きなんだね。まだまだいけると思ったけど、体力的にきつかったかな。でも、今でも体は動かしている。毎日ジム通いもしている。いつまでも「大和魂」は持ち続けていたいからね。
ソウル五輪を目指した社会人選手権3回戦で敗れるまでの189連勝は、今でもギネス記録。最近では耳にすることも少なくなった「大和魂」だが、それがあったからこそ、アニマル渡辺は「史上最強のレスラー」と呼ばれるようになったのだろう。(敬称略)
◆渡辺長武(わたなべ・おさむ)1940年(昭15)10月21日、北海道和寒町生まれ。士別高でレスリングを始め、中大4年の62年世界選手権で優勝、63年世界選手権、64年東京五輪でも優勝し、03年にはマスターズ世界選手権でも優勝している。
(2012年3月8日付日刊スポーツ紙面より)