「最高で金 最低でも金」
「最低でも金メダル」の名言を振り返る谷亮子参議院議員
<柔道・谷亮子~2000年シドニー五輪前に大会での目標を聞かれて~>
第1回は00年シドニー五輪柔道の「最高で金、最低でも金」。記者によって引き出されたという名言を、谷亮子参議院議員(36)が振り返った。
金メダルへの気持ちがこもった、強い決意があふれ出た言葉だった。シドニー五輪前の記者会見、目標を質問された田村(谷)は、はっきりと言った。「最高で金、最低でも金」。発言通りに3度目の五輪で悲願の金メダルを獲得。「やっと初恋の人に巡り合えた」という言葉も残した。
東京・永田町の参議院議員会館、谷は通常国会で多忙な中、少しも変わらない笑顔で迎えてくれた。12年前を振り返って「自分にとって大きな言葉でしたね」と話した。あまりに出来すぎたコメントに、当時は誰もが「前から考えていたに違いない」と思ったはず。ところが「用意していたのでは?」という質問には、笑顔で首を振った。
谷 本当に、突然出てきた言葉だったんです。もちろん、金メダルしかないというのは頭にありました。「最低でも」と言ったのは金メダル以外はないと思っていたから。ただ、その言葉を引き出してくれたのは記者さん。マスコミの方々の力だと思うんです。
確かに、会見の場で言ったのは、シドニー五輪直前だった。ところが、日刊スポーツの記事を調べると、前年末には「最低でも金」の目標が出てくる。本人は忘れているのかもしれないが、当時柔道担当記者だった藤中栄二は振り返る。
藤中 最初に「最低でも金」を聞いたのは五輪前年の10月に行われた世界選手権後、テレビのインタビューでした。目標に最低ラインを設けたのが新鮮で、その後本人に「いいフレーズだね」と言ったら「そうですね、いいですよね」と。きっと周りからも同じようなことを言われたんでしょう。それからですね。よく聞くようになったのは。
90年の福岡国際優勝で衝撃デビュー、その後金メダルを期待された2度の五輪は銀メダルだった。金メダルへの強い思いがあるから「最低でも…」は常に頭にあったはず。言葉として漏れてきたとしても不思議ではない。ただ、それが独り歩きしたのは、マスコミの力。谷はそれに感謝する。
谷 15歳で初めて福岡国際に勝った時、すごく大きく報じてもらったんです。自分の言葉が次の日の新聞に載り、テレビで流れた。うれしかったですね。どうすれば記者さんに喜んでもらえるか、大きく載せてもらえるか、いつも考えてました。「最低でも」も、みなさんに気に入ってもらえて取り上げてもらったから有名になったんです。
記者と距離を置きたがる選手も多い中、谷は積極的に会話する。そこで自分の考えを確認し、さらに異なる意見にも耳を傾ける。そういう作業を繰り返しながら自分の「言葉」を生み出していく。もちろん、目標を公言することによって追い込まれる不安もある。しかし、谷の場合はそれも前向きに捉えている。
谷 私は「有言実行」タイプですね。プレッシャーはかかるし、リスクはあります。でも、それが楽しいんです。期待されると「頑張ろう」という気持ちになるし、みんなに喜んでほしいと思う。私はマスコミが好きだし、選手としてマスコミに育ててもらったと思っていますから。記者さんと話していて、勉強になることも多いんですよ。
シドニー五輪で「最低でも」の「公約」を果たした谷は、続く04年アテネ五輪前に結婚。「田村で金、谷でも金」と宣言して実現させた。さらに出産を経た08年北京五輪では「ママでも金」を公言。結果は銅メダルだったが、日本人史上最多の夏季五輪5大会連続出場で、金2、銀2、銅1のメダルを獲得した。
谷 オリンピックイヤーになると、気持ちが高まりますね。今は試合を見る時間もないけれど、ロンドン大会は現地で見たい。現場を知ることも、今の仕事には必要なことですから。
20年前を振り返っていた「YAWARAちゃん」から、現在の「谷議員」の顔に戻っていた。(敬称略)
(2012年2月2日付日刊スポーツ紙面より)