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コラム Nikkan Olympic Column
五輪100年の記憶 五輪コラム 五輪100年の記憶

 日本が挑む100年目の五輪、ロンドン大会が目前に迫った。1912年のストックホルム大会に日本が初参加してから1世紀、「五輪100年の記憶」として歴史を振り返る。【荻島弘一編集委員】

穴狙って金1号/3段跳び・織田幹雄氏

<1928年アムステルダム大会>

 日本がこれまで夏季大会で獲得した金メダルは、11競技で123個。第1号は84年前、五輪の「穴」を狙ったものだった。28年アムステルダム大会、陸上3段跳びの織田幹雄氏は、2回目に15メートル21を跳んで優勝した。まだ日本の陸上が世界から遠かった時代。後に織田氏は自著「跳躍一路」で「私はオリンピックの穴を狙った」と述懐している。

 1896年第1回アテネ大会で実施された12種目の1つだったが、強豪選手には敬遠された。当時は助走路も硬く、足に大きな負担がかかり故障も多かったからだ。24年パリ大会、初出場の織田氏は走り幅跳びと走り高跳びで予選落ちしたが、3段跳びは入賞(6位)。ここでの手ごたえが、4年後につながった。

 織田氏後、日本は3大会連続金メダル(32年南部忠平、36年田島直人)獲得。36年ベルリン大会ではオーエンス(米国)が短距離と跳躍の4冠に輝いたが、織田氏は「彼が3段跳びをしたら、すごい記録が出ただろう」と書いている。五輪の「穴」だからこそ、日本の「お家芸」になった。

 日本の第1号金メダリストは、引退後に日本代表監督として活躍し、その後早大教授や日本陸連名誉会長なども務めた。金メダル記録15・21メートルは国立競技場や広島ビッグアーチの「織田ポール」の高さとして残り、東京・代々木公園や母校早大の競技場にも名前がある。「織田記念陸上」も毎年4月に出身地の広島ビッグアーチで開催される。

 故郷・海田町の総合公園には顕彰モニュメントがあり、ふるさと館には記念品が展示される。海田小の国旗掲揚台は15・21メートルで、役場職員の名刺も織田氏の写真入りだ。「偉大な織田先生は町の誇り。織田幹雄スポーツ振興会の基金で、子どものスポーツ振興にも取り組んでいます」と同町教育委員会スポーツ振興係の宮垣係長。「陸上の神様」は98年に93歳で死去したが、その記録と記憶は今も、そしてこれからも長く残る。

 ◆織田幹雄(おだ・みきお)1905年(明38)3月30日、広島・海田町生まれ。旧制広島一中(現国泰寺高)で陸上を始め、早大で活躍。28年アムステルダム五輪3段跳びでアジア人個人初の金メダルを獲得した。31年に朝日新聞社に入社。日本代表監督、JOCや国際陸連委員、89年には日本陸連名誉会長に就任した。98年12月2日、死去。

 ◆3段跳び 1度の助走で3回跳び、その距離を競う競技。英語では「トリプルジャンプ」。1874年(明7)に日本に伝えられた時は、ピョンピョン跳びはねる様子から「ウサギの月見」と呼ばれた。当初は「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」の英語(当時)が使われ、選手間では「ホスジャン」などと呼ばれた。29年に関東学連が大会プログラムに掲載する際、和名を相談された早大の「金メダリスト」織田氏が中国語の「三級跳遠」から「三段跳」と命名した。現在の世界記録はジョナサン・エドワーズ(英国)の18メートル29。

(2011年5月24日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月19日14時27分]



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