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コラム Nikkan Olympic Column
爲末大学 オリンピックを考える 五輪コラム 爲末大学 オリンピックを考える

 五輪に3度出場、世界選手権で2度銅メダルを獲得し、先ごろ引退したばかりの侍ハードラーが、独自の視点から五輪を斬る。社会派アスリートが現地で 見て、感じた世界最高峰の戦いを語る。

韓国は五輪精神を傷つけた

 17日間に及ぶオリンピックが終わった。現役を終えてからは初めての観戦者としてのオリンピックは、遠い世界になったようで、でも昔の記憶も思い出されるようで、不思議な気分で見ていた。今日はあらためて五輪を外から眺めていて思ったことを書きたいと思う。これが為末大学、五輪編、最後のコラムになる。

 オリンピックというのは一体何のためにあるのだろうか。起源を言えば、戦争休戦のためだったというのを授業で習った。そして表では語られなくても現在では各国が国力を世界中に示すための場としても使われている。国威発揚、強く言えば代理戦争としての側面もある。

 争いのためか、争いを一時的に止めるためか、それとももっと本質的な目的を五輪は抱えているのだろうか。

 オリンピックを戦いながら、日本代表としてユニホームをまといながら、いつもこの疑問を僕は持っていた。何よりの疑問は、なぜオリンピックはこれほどまでに人を熱狂させるのかということだった。

 男子サッカーの3位決定戦、韓国が銅メダルを決めた時に、韓国チームの1人の選手があるプラカードを持ってグラウンドを走った。プラカードには“独島は我々の領土”とハングルで書かれてあった。

 オリンピック憲章には、競技場では政治的な広報活動をしてはならないとあり、韓国選手の行動はこの憲章に抵触している可能性がある。領土問題ということもあり、お互いの国の感情的なものもあるだろうけれど、私はこのオリンピックの場所でとった彼の行動には問題があると思っている。それは韓国選手の行動によって傷つけられたのは、日本自体よりも、根本の部分でお互いを尊敬し、背景の問題を持ち込まないという、五輪精神にあると思うからだ。

 アスリートたちは目の前の相手と戦っている。もちろんメダルを争う上で、目の前の相手には勝たないといけない。相手に勝つことによって私たちは称賛を受けるし、勝ち進むこともできる。勝つことで努力は報われたと感じる。

 けれども実際に五輪に出場した時に、本気で戦い合った相手をただの敵と見なせないものがあるのを僕たちは感じてしまう。ライバルたちが自分たちと同じように懸命に戦う姿に、負けて悔しがる姿を見ると、同じような努力と苦しみがここに至るまでにあったことを感じ取ってしまうからだ。

 アスリートは表面ではなくもっと深いところで、目の前の相手を通り越して、人類の可能性というものに向き合っている。人はアスリートの相手に勝利する姿だけではなくて、自分自身に打ち勝つ姿に感動する。私たちアスリートはお互い対峙(たいじ)して戦い合いながらも、自分自身の限界と向き合いそれを乗り越えようとする存在で、そしてその目的を共有した相手を、国籍や人種を乗り越えたところで、私たちは尊敬し合う。

 オリンピックの価値とは、普段お互いの立場ではさまざまな問題や、感情的な対立を抱えていたとしても、それらをこの時期この場所でだけはぐっとこらえて、お互いのこれまでの努力と高みを目指す姿勢を尊敬し合おうじゃないかということにあるのだと思っている。そしてそういう共通認識を持った五輪で誰かが政治的な行動を取ってしまえば、その価値が傷つけられるのではないだろうか。

 僕は究極のオリンピックの目的、スポーツの目的は世界平和だと思っている。もちろん平和な状態に到達することがいかに難しいかというのはわかっている。それでもこうして人々が同じ目的、人類の可能性にチャレンジしている場を共有することで感じる共通の価値が、私たちを少しでもそこに近づけてくれるのではないかと思っている。

 さまざまな背景、利害、国籍、人種を超えたところにある、人間という可能性に対しての深い尊敬と、そこから生まれる感動。少し青臭いかもしれないけれど、私はオリンピックの本質的な目的に、平和の祭典というものを感じている。(おわり)

 [2012年8月13日9時24分 紙面から]



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