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コラム Nikkan Olympic Column
五輪100年の記憶 五輪コラム 五輪100年の記憶

 日本が挑む100年目の五輪、ロンドン大会が目前に迫った。1912年のストックホルム大会に日本が初参加してから1世紀、「五輪100年の記憶」として歴史を振り返る。【荻島弘一編集委員】

惨敗柔道が貫いた一本道/柔道

柔道の大会別金メダル数
柔道の大会別金メダル数

<1988年ソウル大会>

 88年ソウル大会、日本柔道は金メダル1個に終わった。監督、コーチ陣が「反省会」を開いたのは市内の焼き肉店。まず、各選手の担当コーチが振り返った。「判定がおかしい」「相手の研究が足りない」「変則柔道に戸惑った」。惨敗の理由は探せても、今後への言葉は出てこなかった。

 採用された64年東京大会以来、柔道は五輪で最も期待される競技だった。しかし、世界に普及し、欧米が本腰を入れて状況は変わっていた。力で技を抑えるパワー柔道。「効果」を奪って逃げるポイント柔道。「一本」を狙う日本との差は、開く一方だった。

 「柔道がJUDOに敗れた」と、周囲の声は厳しかった。メディアからの「一本へのこだわりを捨てるべきだ」「技に頼らず、ポイントを狙うべきだ」という批判も分かっていた。再建策は出なかった。重苦しいムードを破ったのは、上村春樹監督のひと言。「技が通じなかったわけじゃない。今後も日本は正しい柔道を貫くしかない」。同調する声が自然にわき起こった。

 当時、全柔連会長で講道館長だった嘉納行光氏は、報告を聞いて安心したという。「もし、正しい柔道から外れるなら、反対していた」と明かした。上村氏は「欧州型を目指したら、日本は終わり。手足の長さやパワーで劣る日本人でも、正しい技なら勝てる。それが柔道」と振り返った。

 その後、ジュニア世代から技の習得に力を入れ、欧米型に慣れるために海外遠征を増やした。すべては伝統の「一本柔道」を貫くため。結果、92年大会から金メダル数は増加。女子の採用もあって、04年大会では大量8個を獲得するなど、通算でも体操の28個を上回る最多の35個になった。

 世界の流れも「一本」に傾いた。国際柔道連盟(IJF)は最も軽いポイントの「効果」を廃止、タックルなど足をとることも禁止した。日本の「こだわり」が、世界を動かした。「日本が海外と同じポイント柔道をしていたら、今ごろレスリングと区別がつかなくなっていた」と88年大会コーチの吉村和郎氏。ソウル大会の惨敗と、あの夜の決断が、柔道を救ったのだ。

◆88年ソウル大会柔道日本代表の苦戦◆

細川伸二(60キロ級銅メダル/現全柔連強化委員)=連覇狙うも準決勝で疑惑判定負け

山本洋祐(65キロ級銅メダル/現日体大監督)=前年世界王者も準決勝で逆転負け

古賀稔彦(71キロ級3回戦敗退/現環太平洋大総監督)=背負い研究され実力を出し切れず

岡田弘隆(78キロ級3回戦敗退/現筑波大総監督)=ノーマーク選手にまさか一本負け

大迫明伸(86キロ級銅メダル/現全柔連強化コーチ)=準決勝で世界王者に敗れ意地の銅

須貝 等(95キロ級2回戦敗退/現武道ギア社長)=世界連覇も一瞬のスキを突かれる

斉藤 仁(95キロ超金メダル級/現全柔連強化副委員長)=右ヒザ負傷も押しに徹し涙の連覇

(2011年6月28日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月25日17時43分]



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