「孫氏」「坂雲」から忍耐力と克己心／平井伯昌氏（下）

　競泳日本代表ヘッドコーチの平井伯昌氏（４８＝東京スイミングセンター）の後編。前回では、常識にとらわれない指導だからこそ、北島康介の五輪２大会連続２冠につながったと描いた。そして今回。他人とは違った手法、アイデアを持つ平井コーチだからこそ、揺るぎない信念がある。時代は変わっても指導の本質は変わらない。そこには「温故知新」という論語の精神が根付いている。【取材・構成　佐藤隆志】

　コーチとは何か。単刀直入な質問に、答えは明快だった。

　平井　自信をつけさせて目的を達成させる。単純なことに尽きる。その手段にどういったものがあるのか。昔なら怒っていればよかったのかもしれないが、今はちゃんと理解させて納得させ、やらせないといけない。ビデオを使ったり、言葉でうまく説明することだったり。

　０８年北京五輪の男子１００メートル平泳ぎ決勝前。準決勝１位通過のダーレオーエンの泳ぎと比較した上でレース展開を分析し、「勇気を持って、ゆっくり泳げ」と伝えた。北島の持ち味はひとかきごとに水をしっかりつかみ、大きく伸びる泳ぎ。具体的な視点に加え、たくみな表現を用いて送り出した。その言葉通り、５０メートルのターンで１歩リードすると、攻めの泳ぎでダーレオーエンの追い込みをかわした。完璧だった。

　平井　目的を達成するプロセスはどうでもいい。例えば今の子はテレビを見たり、インターネットもそう、ビジュアルから入るというのは分かりやすいんです。脳の仕組みとしても。だったら映像で訴えればいいだけなので。ただ、見せて「どうだ、分かるか？」じゃなくて。その動きの仕組みだったり、勝つためのノウハウを伝える。僕らはしゃべるのが商売ですから。

　１９８６年、東京スイミングセンターに就職。そこで、現日本水連副会長・青木剛の言葉に強い衝撃を受けた。「東スイに就職したんじゃなく、水泳界に就職したと思え」だった。

　平井　もっと上の考えでやらなきゃダメだと。変な考えですけど自分が頑張ることが日本の進歩につながるみたいな。「坂の上の雲（司馬遼太郎著）」で、秋山真之の言葉に「自分が一日遅れると日本が一日遅れる」みたいなのがある。本を読んで「自分と同じだ」って。だから「僕じゃないとできないことをやろう」って途中から思った。

　人を見抜く力がなければ、選手の才能に気付くこともない。青木のアドバイスから孫子、織田信長などの本を読みあさり、歴史的指導者の考え方に触れた。

　平井　選手に「孫子の兵法」を話しても通用しないけど、昔も今も考えていることって人間変わらない。科学が進歩して、道具の部分、小手先は変わったかもしれないが、本質は変わらない。だから歴史とか故事を勉強することは、未来へ人を育てていく上で必要なのかな。温故知新というのはすごく分かります。

　北島がアテネ五輪で金メダルを取った後、平井コーチはあえて完成された泳ぎを崩した。北京に向けてさらに筋トレを導入するなど、また違ったアプローチで金を目指した。力みのない泳ぎを壊しかねない行為だが、立ち止まっていては進化はない。そんな経験を踏まえ、自らの指導哲学を「忍耐心と克己心」と記した。

　平井　北島ってすごい努力するんですよ。だから自分の目的、目標に向かってストイックに努力するんだ、というモデルケースになればいいなと思っていた。戦後の古橋広之進。そういうのが理想だと思っていた。練習をハードにやればいいというのでなく、自分自身に自信をつけるのもそうだし、やっぱり自分に勝てない人は他人には勝てない。克己心です。だから今、自分が担当する選手には精いっぱい努力させて結果を出させる。それでいいんじゃないかと僕は思います。

　競泳とはコースがおのおのに分かれ、交わることのない孤独な戦いだ。選手のみならず、指導者にも忍耐心、克己心が求められる。そんな競技の本質をずばり突く、一筆だった。（敬称略）【佐藤隆志】（この項おわり）

　◆平井伯昌（ひらい・のりまさ）　１９６３年（昭３８）５月３１日、東京・駒込生まれ。早大で選手からマネジャー転向。東京スイミングセンターに入社。北島康介を五輪連続２種目金メダル、背泳ぎの中村礼子も２大会連続の銅メダルに導く。現在日本代表ヘッドコーチ

（２０１２年１月１７日日刊スポーツ紙面から）

　［2012年7月3日19時34分　紙面から］