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コラム Nikkan Olympic Column
名言はこうして生まれた 五輪コラム

名言はこうして生まれた

 ドラマの数だけ言葉が残った。ロンドン大会で100年を迎える日本の五輪挑戦史、多くの選手たちが勝って笑い、敗れて泣いた。記録と記憶をつなぐ「言葉」を、当時の感動とともによみがえらせる。【編集委員 荻島弘一】

「一本柔道というものを、私はずっと教えてもらってきたので」

北京五輪柔道女子63キロ級で金メダルを手に満面の笑みの谷本歩実(08年8月12)
北京五輪柔道女子63キロ級で金メダルを手に満面の笑みの谷本歩実(08年8月12)

<柔道・谷本歩実~2008年北京五輪~>

 08年北京五輪柔道女子63キロ級、谷本歩実は2大会連続金メダルに輝いた。決勝ではライバルのドコス(フランス)に一本勝ち。「平成の女三四郎」は「ずっと一本柔道を教えてもらってきたので、それを貫いた」と胸を張った。アテネから全9試合、オール一本での五輪連覇は史上初だった。抜群の技の切れと強気な攻め、勝っても負けても、そのほとんどが一本。「谷本=一本」。そのルーツは中学時代にさかのぼる。

 谷本 通っていた大石道場では、徹底して技を教えられた。基本を繰り返し、勝敗よりも一本をとる姿勢を教わった。リードして逃げようと思った試合があったんです。保育園児や小学生から「一本とれるぞ」と声をかけられた。そうか、一本とるのが柔道だ。そう教えられた瞬間でした。

 大石道場の先輩には、92年バルセロナ五輪をオール一本で制した吉田秀彦がいた。切れ味抜群の内またにあこがれ、練習した。道場を訪れた吉田と、乱取りもしてもらった。北京五輪決勝で飛び出したのは、吉田直伝の内まただった。

 谷本 それでも、いつも揺れていた。勝ちたいですからね。世界ジュニア決勝で敗れた後、ドコスに勝つため戦略を練ったんです。正々堂々といかず、相手の指導で勝った。すると、ドコスに「指導は勝ちじゃない」と言われて。すごく、恥ずかしかった。その後、正々堂々といったら投げられましたけど(笑い)。

 筑波大時代の恩師だった元祖「女三四郎」の山口香には「寝技も一本だから」と寝技の技術を教わった。日本代表では、担当コーチだった「平成の三四郎」古賀稔彦には徹底して技を磨かれた。04年アテネ五輪、金メダルを決めた後古賀に抱きつく姿は、大会を代表する名シーンとなった。

 谷本 それでも、当時はポイント柔道が主流。スポーツか武道かで、ずいぶん悩みました。勝てなかった年(05年)もあったし、特に北京五輪前はバッシングがすごかった。体重別で負けて代表に選ばれたこともあって「一本にこだわりすぎ」と批判されました。

 ある会見で「これからは(相手の)指導もとれるようになりたい」と言った。すると、同席していた強化委員長の吉村和郎が突然マイクを手に「そんな柔道しなくていい」「一本とる柔道が、お前の柔道なんだ」と怒号を張り上げた。会見場は一瞬で凍りついた。

 谷本 うれしかったですね。私が揺れていると、いつも周りが引き戻してくれる。みんなに守られ、育てられ、導かれたのが私の柔道なんです。日本が目指している柔道、思い求めてきた柔道を私が具現化しただけ。結果が、連続金メダルになっただけなんです。

 名言には、続きがある。「これから柔道をする子どもたちに、もっともっと一本をとる柔道をしてもらいたいと思ったんで、良かったです」。10年に引退し、今は「一本柔道」を伝えていく指導者になった。現在はコマツのコーチとしてロンドンを目指す浅見らを指導。五輪後にはフランスにコーチ留学する予定だ。

 谷本 私が伝えてもらった一本柔道を、今度は私が伝えていきたい。講道館館長の上村(春樹)先生には「(一本とる柔道を貫いてくれて)ありがとう」と言ってもらった。古賀先生には「(一本柔道を)伝えてくれ」と言われました。若い子たちに一本の魅力を伝えるのが楽しみです。

 谷本の言葉には、一本柔道に対するこだわりとともに、日本柔道を伝えていく決意があふれていた。吉田秀彦、山口香、古賀稔彦らから受け継いだ日本柔道のDNAを、今度は谷本自身が伝えていく。(敬称略)

◆谷本歩実(たにもと・あゆみ)1981年(昭56)8月4日、愛知県安城市生まれ。愛知・桜丘高から筑波大-コマツ。9歳の時に柔道を始め、04、08年五輪を連覇した。10年に「心の準備が整わない」と引退。11年8月に元スノーボーダーの鶴岡剣太朗と結婚。

(2012年3月29日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月16日16時22分]





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