コーチの流儀
五輪に向けて日々闘っているのは選手だけではない。スポットライトを浴びるアスリートの背後には、必ず優れた指導者たちがいる。ロンドンの表彰台を目指し、さまざまなアイデアを持ち、独自の工夫を凝らしている。そんなコーチたちの指導哲学に迫る。
上野、美里に脳内革命!読み書き試験、英会話、報告書…/柳沢久氏(上)
- 多くの五輪選手を育てた三井住友海上女子柔道部の柳沢久監督
指導者の指導哲学や本音に迫る「コーチの流儀」。第2回は女子柔道指導の先駆者であり、89年の創部から強豪・三井住友海上女子柔道部を率いる柳沢久監督(64)。女子が公開競技として初めて採用された88年ソウル五輪では女子代表の監督も務めた。別名「三井住友大学」とも呼ばれる型にはまらない指導法で数多くの選手を育て、現在も上野順恵(28)中村美里(22)らロンドン五輪代表候補を指導する。2回にわたって、その「教え」に迫る。
脇に置かれた筆記用具。机の前で神妙な面持ちで待つ。そこに配られる問題用紙。一斉に取り掛かる。試験時間は30分。頭をフル回転させて、問題を解く。終わったと同時に、一部の人間には「追試」の恐怖が襲いかかる。そんな日常が、多ければ週1回は待ち受ける。そこは強豪三井住友海上の女子柔道部。だが、彼女らが持っているのは柔道着の襟ではなく、ペンと消しゴムだった。
柳沢 基本的に、試験はしょっちゅうありますよ。一般教養の試験。課題図書を与えて、そこから漢字の読み書きや、作者の考えを言わせたり…。成績は黒板に張り出す。満点を取らなきゃダメです。取るまでやる。できなければ追試は当たり前。でも、3回ぐらいやれば、みんなちゃんと満点を取るんです。理解できるようになるんです。
89年に創設された柔道の実業団チーム。入社した選手はもちろん、柔道での活躍が期待される。厳しい稽古は午後から開始。トレーニングも含めて4時間みっちり行われる。だが、それ以外は自由な時間かと言われると、現役時代に経験した貝山仁美コーチは「自由はないですね」と笑った。
柳沢 それは言い過ぎだろ(笑い)。ただ、柔道だけしていれば良いという考えではダメです。だって、柔道が終わってからの人生の方が長いんですよ。今の子たちは推薦や特待生制度があって、柔道が強ければ高校にも入れる。でも、それだけでは社会に出たときに通用しないんです。だから徹底します。会社に残っても仕事ができるように。人の基本は「読み、書き、そろばん」なんです。
試合がないときの、選手たちの1週間の過ごし方はこうだ。午前中はできるだけ職場に出社。午後は稽古が待つ。その中で水曜午後は稽古の前に、講師を招いて45分×2コマの英会話授業。木曜午前は強化選手とコーチは調布の英会話教室に通い、金曜日の午前は教養講座として監督または講師を招いて話を聞く。土曜は午前練習で終え、日曜日にようやく休みがくる。
柳沢 英会話は、ここ5年くらいで始めました。国際試合が増えて、ドーピングのときなどに話せないと困るでしょう。帰ってくるとみんなボーッとしていますよ。普段使わない頭を使うから、すぐに柔道に切り替えられない。でも、それでいい。勉強をすると、自分で何をすればいいか分かるようになる。本を読むようになり、ビデオで相手を研究するようにもなる。脳を鍛えればその分、柔道の引き出しも増えるんです。
自分で考える-。その習慣の積み重ねが選手を強くしてきた。過去4人を五輪に送り出し、今も63キロ級の上野順や52キロ級の中村ら世界女王を鍛える。柳沢監督は彼女らに、国際大会から帰国するたび、人形の絵の“一部”を塗りつぶした紙を提出させてきた。塗られた箇所は、疲れたところ。
柳沢 どこの筋肉が疲れたとか、何頭筋が疲れたとか、全部書かせている。疲れた部位は弱いところ。トレーニングが抜けているところなんです。じゃあ、そこを鍛えようとなる。日本選手相手の筋肉の疲れと、外国人相手の疲れは違うものです。国際大会で勝つには、外国人相手に疲れる場所を鍛えないといけない。
三井住友海上女子柔道部において、選手が提出する「報告書」は山のようにある。自分の手で書き、字が汚ければ読まれる前に突き返される。試合で勝った者だけが休みを与えられ、負ければひたすら稽古。そこには、弱ければ人の倍は積まないと強くなれないという信条がある。高卒の選手を、心身ともに鍛える。別名「三井住友大学」。柳沢監督には「教育者」としての顔があった。【今村健人】
<五輪出場した柳沢監督の教え子>
恵本 裕子(61キロ級):96年アトランタ五輪金
横沢 由貴(52キロ級):04年アテネ五輪銀メダル
上野 雅恵(70キロ級):04年アテネ五輪、08年北京五輪2大会連続金メダル
中村 美里(52キロ級):08年北京五輪銅メダル
◆柳沢久(やなぎさわ・ひさし)1947年(昭22)7月23日、長野市生まれ。中学で柔道を始め、屋代高時代に軽量級県王者。東京教育大(現筑波大)柔道部主将を務める。卒業後は千葉工高教諭や筑波大コーチを経て、電気通信大講師へ。77年に講道館女子部指導員となり、88年ソウル五輪女子代表監督などを歴任。89年に三井住友海上女子柔道部創設に尽力し、監督に就任。96年アトランタ五輪女子61キロ級金メダルの恵本裕子らを育てた。
(2012年1月24日付、日刊スポーツ紙面より)
[2012年7月4日20時22分]
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