コーチの流儀
五輪に向けて日々闘っているのは選手だけではない。スポットライトを浴びるアスリートの背後には、必ず優れた指導者たちがいる。ロンドンの表彰台を目指し、さまざまなアイデアを持ち、独自の工夫を凝らしている。そんなコーチたちの指導哲学に迫る。
最後は科学よりハートやろ/久世由美子コーチ
- 08年8月、松田(左)は、久世コーチの首に銅メダルをかけ笑顔を見せた
ロンドン切符を争う競泳日本選手権は4月2日、東京・辰巳国際水泳場で開幕する。その競泳界に「てげな(宮崎弁ですごい)母ちゃん」がいる。男子バタフライの松田丈志(27=コスモス薬品)を指導する久世由美子コーチ(65)。地方の小さなスイミングクラブで4歳から松田を育て、二人三脚で世界へ飛び出した。その土台となるのは、心の指導。周囲の理解と協力に支えられ、道なき道を切り開いてきた。そして今や松田は世界のトップを狙える選手にまで成長した。【取材・構成 佐藤隆志】
心意気1つで道を切り開いてきた。昨年9月、松田は世界選手権5冠のライアン・ロクテ(米国)のもとを訪れた。世界選手権200メートルで銀メダルを獲得したが、またも怪物フェルプスの壁は破れなかった。そこでフェルプスの好敵手への弟子入りを志願。しかも世界選手権の会場でロクテのコーチを探し出し、直談判しての押しかけ合宿だ。
久世氏 コーチどこや? どこにいる? って。英語しゃべれるスタッフを連れて行って。その後は自分で「トレーニング、オッケー?」って言ったら「カモン、カモン」って。日本ではトップになっているし、勉強するとこもない。だったら行くしかない。行って何するんや? って言われたら言葉なんか分からんけど「よっしゃ、丈志とロクテの記録を比べてみよう!」とかね。あほな話ですよ。
松田が高校生の時、会場で自由形の元世界王者ハケットのコーチを見つけ、カレンダー片手に合同練習の約束を取り付けたこともあった。まさに情熱の塊だ。
34年前、宮崎県延岡市・東海(とうみ)中学のプールに仲間たちとクラブを立ち上げた。2人の娘を持つ母ちゃん。家事、子育てをこなしながら水泳に人生をささげてきた。保護者の協力で防寒のためビニールハウスでプールを覆った。のちに市の補助を取り付け、ボイラーも設置。手弁当のボランティアながら、さまざまな問題を乗り越えてきた。
久世氏 長男の嫁やったんで、両親から「何でお前が行かなあかんのや?」でしたよ。だから家でも「ばあちゃん、私がやるから、私がやるから」って。そうやったら「行ってこい」と言われるまでに20年かかった。すごくうちの(夫征志さん)が応援してくれ、今があるということです。
熊本・八代市出身。男3人に女1人のきょうだいにあって、剣道の師範だった父から厳しくしつけられた。それが心の指導の原点である。
久世氏 1人悪ければ、みんな正座させられたし、たたかれた。おかげで何を言われても我慢できるし、進んで行こうと思った時には「お願いします!」と頭を下げられる。父からは「人に勝とうという前に、自分に負けたら意味ないんだよ。己に克(か)て、そして他人に勝て」なんだよ、と。それは松田にも教えました。
その愛弟子とは4歳の時に出会った。トップ選手としては他に例をみない親子さながらの師弟関係は、もう24年近くも続く。現在なら映像分析など科学的な面からの指導も多い。だが一貫してこだわったのは心を磨くことだった。
久世氏 いくらビデオを見て科学的に分析してもつながらないことが多い。やっぱり目で見て、記録取って、選手と話して。それがマッチするかしないか。いくら科学だ、分析だと言ってもやっぱり最終的にハートやろ。ここが強くないと勝てない。情報の少ない地方から出ていくんで「あの松田は何かしでかすんじゃないか」という強さ、堂々とした態度、そういうのを植え付けようと思った。
松田の高校卒業に伴い、五輪を夢見て、そろって宮崎を出た。家族を持つ身としては苦渋の決断だった。
久世氏 もちろん両親が許すはずもないって分かっていた。でも主人が「『何言っているんだ』って止めたら、丈志がオリンピックに出たとしてもお前は後悔するだろう。俺も後悔する。ここまで日本のトップになれたんやったら世界を狙いたいのは当然。行ってこい。俺がおやじを説得する」。そのひと言がなければ行けてなかった。本当に心というものを大事にしました。
あの決断から10年、今や松田は世界の頂点を狙える位置にいる。まずは1週間後に控える日本選手権へ「通過点として、ロンドン見据えてここまで行けたら『行ける』というものを持ちたい」。支えてくれた人たちへのため-。てげな母ちゃんは誠心誠意を尽くし、3度目の五輪に挑む。
◆久世由美子(くぜ・ゆみこ)1947年(昭22)1月29日、熊本・八代市生まれ。福岡・筑紫女学園高-旭化成。高校時代から全国レベルで活躍。79年から東海(とうみ)SCコーチ。03年に松田の進学に合わせて中京大コーチに就任するなど二人三脚で活動。松田を04年アテネ五輪の400メートル自由形で8位、08年北京五輪200メートルバタフライで銅メダル、昨年の世界選手権の同種目で銀メダルに導く。現在は日本代表コーチとして国立スポーツ科学センターを拠点とする。
(2012年3月27日付、日刊スポーツ紙面より)
[2012年7月12日14時21分]
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