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コラム Nikkan Olympic Column
コーチの流儀 五輪コラム

コーチの流儀

 五輪に向けて日々闘っているのは選手だけではない。スポットライトを浴びるアスリートの背後には、必ず優れた指導者たちがいる。ロンドンの表彰台を目指し、さまざまなアイデアを持ち、独自の工夫を凝らしている。そんなコーチたちの指導哲学に迫る。

原石→金4個 北島を磨いた「ひねくれ者」/平井伯昌氏(上)

平井コーチ(右)と北島(左)の二人三脚は、これからも栄光へと向かっていく
平井コーチ(右)と北島(左)の二人三脚は、これからも栄光へと向かっていく

 第1回は競泳日本代表ヘッドコーチ、平井伯昌氏(48=東京スイミングセンター)。北島康介育ての親で競泳ニッポンを背負う平井氏を、2回にわたってクローズアップする。【取材・構成 佐藤隆志】

 「ひねくれ者ですから。言われたら『このやろー』って思っちゃう方なんで」。平井コーチは自らの指導法を自虐的に表現した。

 平井伯昌、48歳。職業は水泳コーチ。「北島のコーチ」と言った方が、なじみがあるだろう。その実績は日本五輪史上でも格別だ。北島を二人三脚で鍛え上げ、04年のアテネ、08年の北京と2大会連続の2冠。100メートルでは世界新記録(当時)という立派なオマケまで付けた。日本国民が北島の快挙に熱狂する傍らで、静かに喜びをかみしめた。それは従来の「常識」にとらわれず、自分の信念を貫いた男の勝利でもあった。

 99年のシドニー五輪前年、高校生の北島を連れて初めて高地トレーニングを行った。低酸素、低圧の条件下で練習すれば赤血球の数が増え、酸素の摂取能力と供給能力が増大。結果的に最大酸素摂取能力が高まり、全身持久力が高まるというもの。今でこそ有効手段として認知されているが、当時は800メートル、1500メートルの持久系選手の練習法で、短距離系選手には不向きという考えが根強かった。それを打ち破った。

 平井 「短距離にやっても効果は出ない」「北島のようなスプリンターには向かない」って言われた。その時に「そんなの誰が決めたんだ」って思った。僕は高地トレーニングというのは1つの手段であって、北島に合うようにやればいいんじゃないかなと思った。「これじゃ、ダメだよ」って言われても納得しない。目指しているのは世界一だったりするんで、常識的なことじゃないわけです。周りの人の言うことをやっていたら、何年かかるか分からない。僕は中学3年生の康介を、3年後にはオリンピック選手にしなければいけない。そういう生意気なところもあった。

 五輪選手を育てることを夢見て、早大から86年に東京スイミングセンター、通称「東スイ」に入社。11年目に担当したのが北島だった。それまでも優秀なジュニア選手を指導したが五輪選考レースに向かう過程で気持ちが乱れ、敗れたという。コーチとして何もできない自分の未熟さを痛感するとともに、選手には肉体だけでなく、精神的な才能も必要だと実感した。北島はそんなタイミングに現れた「原石」だった。

 平井 目力というか意志の強さ。なんか我慢強そうな、集中力があるんじゃないかというような。試合で泳ぐ時に「あれっ、コイツこういう顔してるんだ」と思った。泳ぎ終わってレースの説明をしていたら、僕を見る目がすごく鋭い。「何だ、練習中にこんな顔してないのにな」って。練習より本番に強いっていう。こういう選手じゃないとダメなのかなと思った。

 現在、米国に拠点を置く北島とは少し距離を置くが、女子背泳ぎの寺川綾、バタフライの加藤ゆか、自由形の上田春佳を付きっきりで指導し、ロンドン五輪の表彰台を目指している。

 平井 昔の人はよく言ったものです。「目は口ほどに物を言う」なんて。自信がついてくると変わる、指導している上田春佳とか、じーっと見てきますから。昔はそんな感じじゃなかった、集中力がなくてキョロキョロしてダメだったんですけど。人間変わるものだな、と。ただ誰もが変わるわけじゃなくて、きっかけと取っかかりがあって、うまくいった時に人間ってガラリと変わる。

 200メートルで日本記録保持者の上田は11年の世界ランク13位。日本女子自由形の大器として、ロンドン五輪での活躍が期待される1人だ。

 固定観念に縛られない、自由闊達(かったつ)な発想こそ、平井コーチの持ち味だ。東京・駒込の生まれ。小学校2年時の担任はビートたけしの恩師で、小説「菊次郎とさき」に登場する藤崎先生。その藤崎先生にも水泳を教えてもらった。小学生時代から何かに興味を持てば、納得するまで調べた。「何で地球は丸いのか?」。そうなると図書館にこもった。「常識だ」と言われれば「何で常識なんだ?」と返す。それは今と何ら変わりない。

 例えば、竹の物差しの使い方をめぐって教師に異を唱えた。目盛りでチョンチョンと印をつけた上で、線を引く時は「必ず物差しの背中で引きなさい」と教えられた。教師としては指導要綱にのっとったものだった。だが家は洋裁店。幼少期から見たやり方とは違う。黙ってはいられなかった。

 平井 うちはお針子さんが住み込みでやっていて、そんなことやっていない。ピュッと線を引いているんですよ。だから「そんなの竹でね、鉛筆の芯の方が軟らかいんだから、そのまま(目盛りの方で)引けばいいじゃないか」と。すると「そうじゃなくて、物差しの使い方はそうなんだ」って返してきた。だから「そんなの誰が決めたんだ。うちはそれで洋服をつくって売っているんだ。それは間違っているのか」と、先生と言い争いになった。「平井くんの意見は分かるけど、それはダメだ」って。でも、実際の仕事でそう使っているわけですよ。

 算数の授業では、こんなことがあった。円の周りを測るにはどうしたらいいか? そんな問題が出た。

 平井 円周率は習ってなかったんですが、塾に行ってたやつが「直径測って、3・14をかければいいんですよ」と言った。そしたら(先生が)それはご法度だと。そこで僕は小学校に行く時に、家の周りにクイを打って糸で測量している場面を思い出した。「そんなのこうやって糸で測って何メートルとか言えばいいじゃないか」と言った。正解じゃなかったけど、先生が何か感心してて。だから自分の持っているのは、誰かに教わったことじゃなく、自分で見たり、聞いたりしたこと。本にあったことも参考にはしますけど。

 自分の目を信じるからこそ、型にはまらない。学生時代に先輩から「これやっとけ」と言われても、納得できなければ「何でですか?」。他人の言葉をうのみにすることはなかった。

 平井 「うるせえな、お前」とよく言われた。小さいころから生意気だったと思うんです。1人でどっかに歩いていってしまうのが好きだったし。「何でだろう? 何でだろう?」って自問する癖があった。そういうのが一番かな。

 自らの少年時代を自嘲気味に「クソ生意気」と表現した。だが現在の姿は誰からも信頼される好漢だ。謙虚で他人への敬意を忘れない。日本代表ヘッドとして、メディアにも真摯(しんし)に対応。自らの考えをはっきり明かし、説明する。選手からすれば耳が痛い部分もあるだろうが、それもまた自分の果たすべき役割と理解している。

 平井 「何で強くなったのか」「何で結果が出たのか」、逆に「何で結果が出なかったのか」。自分は包み隠さず言おうというところがある。みんな知りたいんですよ。何で金(メダル)が取れたのか、何で失敗したのか。だからメディアの前に出たら、それは心掛けないといけないことだと思っています。

 時には誤解を生むこともあっただろう。しかし他人に左右されず、常に自分の視点で考え、取り組んできた。そんな手法がさまざまな科学反応を起こし、成果となった。ひねくれ者だからこそ、北島康介という「常識破り」のスーパースターが生まれた。(つづく)

 ◆平井伯昌(ひらい・のりまさ)1963年(昭38)5月31日、東京・駒込生まれ。早稲田中・高を経て早大。在学中に選手からマネジャーに転向。卒業後に東京スイミングセンターに入社。96年から男子平泳ぎの北島康介を指導し、04年アテネ、08年北京で五輪2大会連続2種目金メダルへ、また女子背泳ぎの中村礼子も2大会連続の銅メダルに導く。現在は日本代表ヘッドコーチ、日本水連競泳委員。家族は妻。

(2012年1月10日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年6月27日17時12分 紙面から]



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