「強制送還事件」乗り越え金／レスリング・富山英明

＜１９８４年ロサンゼルス五輪＞

　８０年モスクワ五輪、選手たちは日本のボイコットによって４年に１度しかない勝負の場を失った。柔道の山下泰裕、レスリングの高田裕司、マラソンの瀬古利彦…。レスリング５７キロ級の富山英明も、４年後の８４年ロサンゼルス五輪まで悲願は「お預け」となった。

　人間ロケットが飛んだ開会式。「五輪は１回だけ」と心に決め、８年間の思いを込めて入場行進した。その手には五輪憲章で持ち込みが禁止されているカメラがあった。これが、金メダル獲得がピンチになるほどの大問題へと発展する。

　富山　もちろん、禁止は知っていた。でも、一生に１度だし、記録しておきたかった。外国の選手はみな持っていたし、カール・ルイス（米国）はビデオまで回していた。ほかの役員や選手たちに「オレも撮ってくれ」となったが、中の１人の報告が上（ＪＯＣ幹部）を怒らせたんだ。

　開会式にカメラを持ち込んだ日本選手は１人ではなかった。しかし、幹部の怒りは、富山だけに向けられた。モスクワ五輪不参加の際、ＪＯＣの決定に最後まで抵抗したのがレスリング協会。その「遺恨」が、怒りを増大させたのかもしれない。開会式翌日、富山とレスリング監督の福田富昭は団長室に呼ばれた。

　福田　けんかですよ。富山は確かに悪いけど、彼だけではなかった。なぜ富山だけが処分されるのか。外国はみなＯＫなのに、日本だけがくそまじめだった。古い体質の連中には、何を言ってもダメ。あとは売り言葉に買い言葉。団長室に怒号が飛び交うなんて、普通じゃあり得ないね。

　ＪＯＣ幹部は、怒りにまかせて「日本に帰す」とマスコミに口走った。「金メダル候補の強制送還」という衝撃的な「事件」が、日本に伝えられた。

　富山　嫁さん（婚約者の幸子さん）が電話口で泣いて「いつ帰ってくるの？」って。大騒ぎになっていたんだ。自分は学生を教える身で「規則順守」を言ってきた。大変なことになったという気持ちだった。

　モスクワ五輪以降、富山は１年間マットを離れた。「気が抜けて、練習もしたくなかった」。復帰してからも頸椎（けいつい）を痛めて、左の握力は２１キロまで落ちた。世界選手権も２位と３位。マスコミには「もう富山は終わった」とまで書かれた。それでも目指した五輪を目の前に、強制送還などとんでもない。

　富山　福田さんは怒っていたけれど、こっちは謝るしかない。フィルムは没収されて、頭を下げ、わび状を書いたよ。本番では負けられない。絶対に金メダルを取らないとと思った。

　「金確実」といわれた５２キロ級の高田の敗戦後、富山は強烈なプレッシャーの中で金メダルを手にした。帰国の時、福田監督は「（ＪＯＣと）徹底的に戦う」と宣言し、週刊誌で旧態依然としたＪＯＣ批判を展開した。４年後のソウル大会からカメラはＯＫとなり、選手強化費もアップした。富山の「事件」が、アマチュアスポーツ環境改善への引き金となったのだ。

　もう１つ、富山は「非常識」なことをしている。五輪後に出版した自伝「夢を喰う」の表紙写真で、金メダルを噛（か）んだのだ。

　富山　メダルは神聖なものだった。噛んだら、また（ＪＯＣに）怒られると思った。でも、カメラマンに頼まれ、仕方なかった。引退したんだから、怒られてもいいと思ってやった。

　（１）体育の先生になる（２）五輪で金メダルを取る（３）大学の同級生と結婚する（４）自叙伝を出す。レスリングを始めた時からつけた「流典」と題した日記に書いた目標は、すべてかなえられた。「非常識」を「常識」にも変えた。支えたのは、富山の強い思い。思いは現実になった。（敬称略）

　◆８４年ロサンゼルス五輪レスリング・フリースタイル　ソ連など東側諸国のボイコットで金メダル量産と思われたが、圧倒的なアウェーで思うような成績が残せない。「金確実」といわれた５２キロ級の高田裕司が銅メダルに終わり、４８キロ級の入江隆、６２キロ級の赤石光生、８２キロ級の長島偉之、９０キロ級の太田章も銀メダル。最後のとりでが、５７キロ級の富山英明だった。予選４試合を３フォール勝ちなどで全勝した富山は決勝で米国のデービスと対戦。終始先手をとって８－３で判定勝ちした。試合後、富山は金メダルを胸に引退を表明した。

　◆富山英明（とみやま・ひであき）１９５７年（昭３２）１１月１６日、茨城県生まれ。土浦日大－日大。現在は母校日大レスリング部監督。８４年ロサンゼルス五輪男子レスリング・フリースタイル５７キロ級金メダル獲得。五輪、世界選手権で金３、銀２、銅１獲得。

（２０１１年９月６日付日刊スポーツ紙面より）

　［2012年7月6日16時37分］