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コラム Nikkan Olympic Column
負けない!日本~スポーツ100年~ 五輪コラム

負けない!日本~スポーツ100年~

 金メダルのドラマが感動を生み、日本人を勇気づけた。日本のスポーツを統括する大日本体育協会(現日本体育協会)創立は、101年前の1911年(明44)。日本の五輪参加もロンドン大会で100年となる。逆境をはね返した金メダリストの偉業を振り返る。【編集委員 荻島弘一】

下の毛剃ってまで狙ったロス/レスリング・小林孝至

88年ソウル五輪フリー48キロ級で優勝した小林孝至
88年ソウル五輪フリー48キロ級で優勝した小林孝至

<1988年ソウル五輪>

 これまでの五輪で24個の金メダルを獲得している日本レスリング。その中で、最も知名度の高い男子選手は小林孝至かもしれない。88年ソウル大会フリー48キロ級優勝。顔と名前は、帰国後の「金メダル紛失騒動」で一躍有名になった。上野駅の公衆電話に置き忘れ、その後届けられたドタバタ劇。それでも、小林は胸を張る。「とらなくちゃ、なくせないですから」と。

 小林 私にとっては、すごく価値あるもの。拾った人にとっては、大して価値はないでしょうが。なくなった時は、本当に焦りましたね。それだけの思いが詰まっていますから。

 言葉通り、金メダルへの道は平たんではなかった。日大3年で迎えた84年ロサンゼルス五輪予選。小林は決勝で土浦日大の先輩でもある入江隆と対戦する。接戦を制して代表の座をつかんだ直後、相手陣営の抗議によってポイントが計算し直され勝敗が覆った。モスクワ五輪不参加で代表の座を逃した入江は、ロスで銀メダルを獲得した。

 小林 絶対に勝ったと思ったし、レフェリーも私の手を上げていた。それが、ビデオで判定が変わった。今でも納得はしていませんね。私が狙っていたのはロスだけ。目標を失って、すぐ次(ソウル)に切り替えるなんてできなかった。

 この時、小林は頭を剃(そ)っていた。実は下も。4次予選の計量に遅刻したのが理由だった。本来なら失格だが、日本協会は「温情」で最終予選出場を認めた。日大1年で臨んだ82年アジア大会で優勝するなど外国選手に圧倒的な強さを見せていたからだ。ペナルティーは上下の剃毛(ていもう)。当時監督だった福田富昭は振り返る。

 福田 交通渋滞が遅刻の理由だったが、そんなのは本番では通用しない。だから「剃れ」と命じた。悔しかったと思う。小林の性格から考えても、そのままレスリングが嫌になってやめるのではとも思った。

 剃毛は、日本協会会長だった八田一郎以来の日本レスリング界の「伝統」。東京五輪前、レスリング日本代表の厳罰だった。流行語にもなった「剃るぞ!!」の最後の「犠牲者」が小林。しかも、1年間という期限付きだったという。

 小林 屈辱でしたね。その後の大会でも、私だけ別室で下半身のチェック。その度に悔しくて、情けなくて…。それでロスに出られていればいいけれど、出られなかったですから。

 ソウルへの切り替えには時間がかかった。その後も入江の壁を越えられなかった。福田は社長を務めるユニマット(現ジャパンビバレッジ)に小林を入社させて、土浦日大、日大の先輩でロス五輪金メダリストの富山英明を「専属コーチ」につけた。驚異的な集中力ゆえに、それが続かない小林の「お目付け役」だった富山は苦笑いで話す。

 富山 小林は宇宙人に近い地球人。考えてることも分からないしね。突然合宿所から姿を消して、数日後にフラッと戻ってくる。その度に「オリンピックは天才の集まり。そこで勝つのは簡単じゃない」って、何度も話した。なかなか本気にならないんだよ。

 小林が真剣に取り組みだしたのは、ソウル五輪1年前。87年の全日本選手権でライバルの入江に勝ってからだった。富山との練習にも熱が入った。それでも、突然合宿所から消える「放浪癖」は相変わらず。もっとも、それこそが小林の強さの源でもあった。

 小林 別に私はさぼっていたわけじゃない。厳しい練習を続けていたら、体がもたない。自分の体は自分しか分かりませんから。だから、少し休んでから練習に戻った。不真面目じゃない。私は自分のペースで練習していただけです。

 変わり者と呼ばれた性格や、国内を勝ちきれない勝負弱さが指摘されることもあったが、潜在能力はケタ違いだった。入江とのプレーオフの末にソウル五輪出場権を手にし、日本の秘密兵器として大舞台に挑んだ。

 富山 レスリングの強さは僕なんかの比じゃない。力も強いし、体は柔軟、技も切れた。48キロの体で、100キロある日大同級生の本田多聞(現プロレスラー)を背負って正座から立ち上がる。そんなことできるヤツはほかにはいないよ。

 福田 屈辱をバネに本当に頑張った。小林1人のために海外遠征を行ったりしたけれど、その期待応えてくれた。大したもの。

 下の毛まで剃る屈辱から4年、小林は圧倒的な強さで金メダルを手にした。下半身に残るチクチク感が力になったのか。だからこそ大切な金メダル。「とらなくちゃ、なくせない」と胸を張るのも当然だった。(敬称略)

 ◆88年ソウル五輪レスリング・フリー48キロ級 小林は1回戦で優勝候補と言われた地元韓国の李相昊と対戦。開始わずか44秒で負傷棄権に追い込むと、その後は危なげなく決勝まで勝ち進んだ。決勝ではツォノフ(ブルガリア)を開始直後から圧倒。次々とポイントを奪って16-4で快勝すると、右手を突き上げてマットの上で跳ねた。五輪初出場で初優勝。富山コーチの肩車で勝利の喜びを爆発させると「今、一番したいことは?」の質問に「1人旅ですね」と答えた。

 ◆小林孝至(こばやし・たかし)1963年(昭38)5月17日、茨城県生まれ。土浦日大でレスリングを始めて2年連続高校3冠、日大でも大学タイトルを総なめにした。90年世界選手権48キロ級銅メダルで91年に引退。07年に埼玉・三郷市で柔道接骨院を開業。

(2011年12月13日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月18日14時20分]



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