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コラム Nikkan Olympic Column
負けない!日本~スポーツ100年~ 五輪コラム

負けない!日本~スポーツ100年~

 金メダルのドラマが感動を生み、日本人を勇気づけた。日本のスポーツを統括する大日本体育協会(現日本体育協会)創立は、101年前の1911年(明44)。日本の五輪参加もロンドン大会で100年となる。逆境をはね返した金メダリストの偉業を振り返る。【編集委員 荻島弘一】

運動オンチ…猛練習で日本悲願/柔道・上村春樹

<1976年モントリオール五輪>

 日本柔道界の悲願を達成したのは、174センチ、104キロの上村春樹だった。76年モントリオール大会、無差別級金メダル。東京大会の神永昭夫、ミュンヘン大会の篠巻政利が逃したタイトルを手にした。東京大会で柔道が採用されてから12年(メキシコ大会では実施されず)、日本柔道が世界の頂点に立った瞬間だ。

 上村 たまたまだよ。東京の時はヘーシンクがいたし、ミュンヘンはルスカがいた。モントリオールでは彼らがいなかったから。もちろん勝つつもりで行ったけど、勝った時は実感がわかなかった。羽田空港で歓迎を受けて、大変なことをやったんだと思った。

 大仕事だと思わなかったのには理由がある。東京大会の敗戦は「外国人でも強いやつがいるんだな」、明大4年時のミュンヘンの負けも「代表選手は大変だなあ」と人ごとだった。五輪出場など考えてもいなかった。高校時代から全国大会で活躍するエリートとは違う。まだ雑草だった。

 上村 もともと運動がダメ。100メートルは17秒7、ベンチプレスも105キロ、鉄棒の逆上がりは1度もできたことがない。子どものころは運動会が嫌で、数日前から腹を出して寝ていた。風邪をひくためにね。小学生の時は100メートル20秒。徒競走で、次の組と争うんだ。

 柔道でも高校までは目立たなかった。国体で優勝して明大監督になっていた神永に誘われる。熊本から希望を胸に上京したが、4月に講道館で行われた東京学生選手権で屈辱を味わう。1回戦の相手に絞め落とされて、失神したのだ。

 上村 気がつくと、観客の視線が自分に集まっている。悔しかった。道場の隅に座り、タオルで顔を隠して「柔道をやめて熊本に帰ろう」と決めた。その時、神永監督に言われた言葉。「人並みにやったら、人並みにしかならない。まして素質のない者は人の2倍3倍やらないと勝てない」。2倍は難しいけれど、20分多く練習した。毎日欠かさず。そうすれば月10時間、年120時間、人より多く練習したことになる。

 猛練習の結果、驚異的な受けの強さで4年時には明大のポイントゲッターになった。しかし、就職は旭化成。トップ選手が東京や大阪に集まる時代に、宮崎を選んだ。「最初に声をかけてくれたから」だが、周囲からは「上村は終わりだ」と言われた。ハンディがあったからこそ、頑張れた。

 上村 練習時間は限られたし、練習相手もいない。だから工夫した。毎日テーマを決めて練習する。「背負い投げしかやらない」とか「大外刈りしかしない」とか。それで技を磨いた。技が前や後ろに投げるものばかりで、横に投げる技が少ないと気づくと、相手を横に崩す練習をした。ハンディは、どうにでもなる。

 旭化成入り直後、73年の全日本選手権で「組み合わせに恵まれて」優勝。75年には2度目の優勝を果たした。その大会の準決勝で対戦したのが東海大相模高の山下泰裕だった。この出会いが、上村の技をさらに磨くことになった。

 上村 試合前には必ず相手をにらみつける。精神的に優位に立つためにね。普通の選手はみな目をそらした。でも、山下は最後までそらさなかった。それで強くなるなと直感した。モントリオール大会前の翌年の全日本まで1年間、山下対策だけをやった。捨て身の小内刈り。それをやっていたから翌年準決勝で山下に勝ち、代表になれた。

 モントリオールへは、絶対の自信を持って臨んだ。全日本優勝の遠藤純男が重量級で起用され、2位の上村が無差別に回った。遠藤は銅メダルに終わったが、金メダルの上村は表彰台の上で無邪気にメダルを振り回した。神永、篠巻、偉大な明大の先輩が果たせなかった夢を実現させた。

 上村 力もない、速さもない、体にも恵まれなくても、金メダルがとれた。ハンディを克服する方法はある。勝因にラッキーはあっても、敗因にアンラッキーはない。敗因を分析して、1つずつつぶしていく。その作業の繰り返しだよ。

 上村は今、全日本柔道連盟会長。失神デビューした講道館で館長になった。さらに、JOC選手強化本部長として、ロンドン五輪では選手団長も務める。

 上村 日本は強い。努力し、工夫できるのが日本の強さ。そういう力をロンドンで見せて、日本を元気にしてほしい。金メダルの目標は、世界5位。そのために、とことんやりきる。敗因に練習不足や研究不足は許されない。そのくらいの決意でやらないと。

 初めて日本が参加した1912年ストックホルム大会団長は、講道館を創設した嘉納治五郎。ちょうど100年後、講道館館長が再び日本をけん引する。嘉納が説いた「精力善用」。心身を鍛えて世のために使えという教えは、今も変わらない。上村の館長室には、嘉納の筆による「精力善用」が掲げられている。(敬称略)

(終わり)

 ◆76年モントリオール五輪柔道無差別級 1回戦不戦勝の上村は2回戦で北朝鮮のパク、3回戦でフランスのルージェを退けて準決勝に進出。「事実上の決勝」と言われたチョチョシビリ(ソ連)戦は、相手を研究し尽くした成果を見せて優勢勝ち。返し技が得意な相手を警戒し「技は1つしか出さなかった」が、終始押しまくって決勝に進んだ。レムフリー(英国)との決勝戦は上四方固めで抑え込んで一本勝ち。「無差別級だと(柔道最終日で)試合まで退屈しちゃうな」と話す大胆さの裏側で、徹底した相手の分析と勝利への作戦を立てた、計算し尽くした金メダルだった。

 ◆上村春樹(うえむら・はるき)1951年(昭26)2月14日、熊本県生まれ。八代東高-明大。旭化成入りした73年と75年に全日本選手権優勝。75年世界選手権無差別級、76年五輪無差別級優勝。78年嘉納杯で山下泰裕に敗れ引退。全柔連会長、講道館館長。

(2011年12月27日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月20日13時28分]



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