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コラム Nikkan Olympic Column
敗者の美学 五輪コラム 敗者の美学

 勝者がいれば、必ず敗者がいる。「敗者の美学」では日本人選手はもちろん、海外の選手も含めた「敗者」の人間ドラマをクローズアップ。記者が思い入れたっぷりに語ります。

菅原「一生懸命な姿見てもらえた」/フェンシング

<菅原智恵子:女子フルーレ個人>

 菅原智恵子(35=宮城クラブ)が前回の08年北京大会に続く、フェンシングでは日本人初の2大会連続ベスト8進出、7位入賞。表彰台には立てなかったが、やるべきことはやったと感じた。「自分の一生懸命な姿を見てもらえたと思います」。28日の試合後、菅原の頬を涙が伝った。

 3度目の五輪は、純粋に競技者として立った今までとは違った。北京大会後に現役を引退。故郷の宮城・気仙沼高で教員を務めていた昨年3月、東日本大震災に見舞われた。発生時、校舎内にいた菅原は無事だったが、教え子らを津波で亡くした。「自分の無力さを痛感した」。日本協会からの代表コーチ就任要請を受け、了承した直後のことだった。

 郷里を襲った甚大な被害を目の前にして、東京へは行けない-。そう決断した菅原の背中を、地元の仲間は押してくれた。「気仙沼を元気づけたい。人々に少しでも笑顔を取り戻してもらえれば」。やがて協会からはコーチにとどまらず選手としての復帰も打診された。最前線で復興への願いを体現できる機会を得た。

 今回の五輪開幕前、気仙沼高で最後に教えたクラスの生徒らから写真や激励の手紙が届いた。心の底から「メダルを取りたい。また応援してもらえる戦いがしたい」と思った。準々決勝で、金メダルを手にしたディフランチェスカ(イタリア)に屈したが「悔しいけれど、ここまでこられたのは上出来です」と胸を張れた。

 個人種目で世界と互角に戦える手応えをつかみ、8月2日の団体戦に臨む。被災地への思いと使命、そして自分自身の夢を感じて戦える。菅原の歩んできた道には、まだ続きがある。

 ◆菅原智恵子(すがわら・ちえこ)1976年(昭51)8月15日、宮城県気仙沼市生まれ。鼎が浦(現気仙沼)高1でフェンシングを始め、3年時の総体準優勝。日体大では4年時の全日本学生選手権フルーレ、エペで個人優勝。全日本選手権個人では98年と00年に女子エペで優勝。04年アテネ五輪は15位、07年世界選手権で団体で3位に入り、日本初のメダル獲得に貢献。08年北京五輪では個人で7位に入り、日本女子初の入賞。162センチ、55キロ。

 [2012年7月30日9時50分 紙面から]



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