日本が挑む100年目の五輪、ロンドン大会が目前に迫った。1912年のストックホルム大会に日本が初参加してから1世紀、「五輪100年の記憶」として歴史を振り返る。【荻島弘一編集委員】
メダル1号銀でも負け/テニス・熊谷一弥氏
<1920年アントワープ大会>
日本初のメダルは、屈辱と失意の「銀」だった。1920年(大9)アントワープ大会は、16年大会が中止となり、日本にとっては2度目の挑戦だった。獲得したのはテニス男子シングルスの熊谷一弥氏。柏尾誠一郎氏と組んだダブルスも銀メダルに輝いた。しかし、同氏にとって銀メダルは負け。32年発刊の日本テニス協会10年史には「その夜ほど悲憤の涙にくれたことはない」と書いている。
陸上、水泳、テニス。計13人の選手団だった。陸上と水泳は世界から遠く、予選落ちを繰り返した。期待されたマラソンも16位が最高。しかし、テニスは強かった。慶大から三菱合資会社に進んだ熊谷氏は、駐在先のニューヨークで活躍。18年全米選手権でベスト4に進出し、全米ランク3位にまでなっていた。
最強の米国勢は不参加だった。相手になりそうな選手はいない。1回戦から準決勝まで5試合、1セットも落とさず勝ち進んだ。しかし、魔物がいた。連日の雨でボールは重く、ぬれたコートは滑る。自著「テニス」には「体力は平常の数倍を要した」とある。
30歳直前、疲労で不眠になった。決勝前夜、寝たのは午前3時。南アフリカのレイモンドから第1セットこそ奪ったが、そこで力尽きた。翌日のダブルス決勝も英国のターンブル、ウースナム組に敗れた。ショックの大きさは、在ベルギー大使館員が表彰式に代理出席したことからも分かる。
銀や銅でもメダル。まして日本初なのだ。しかし、同五輪の「選手団報告」には「銀メダル」の文字もなく、決勝敗退は「残念だった」と書かれている。「勝ち」と「負け」しかない時代だったのかもしれない。「失望と悲観の裏に尽きぬ恨みを跡に残して」アントワープを後にした熊谷氏。悪天候と、単複どちらかに絞らなかった戦略ミスを後々まで悔いていた。屈辱と失意の詰まった92年前の日本初メダルは、東京・国立競技場内の「秩父宮記念スポーツ博物館」にある。
◆テニスと五輪 1896年の第1回アテネ大会から採用。9競技のうち唯一の球技だった。1900年パリ大会から女子の参加が認められたが、プロ化の流れの中で24年パリ大会を最後に五輪から除外された。復活したのはプロの参加が認められた88年ソウル大会から。今年のロンドン大会では男女のシングルス、ダブルスのほかに、混合ダブルスが24年大会以来88年ぶりに実施される。
◆熊谷一弥(くまがい・いちや)1890年(明23)9月10日、福岡・大牟田市生まれ。慶大から三菱合資会社入り。米国を拠点にし、1920年アントワープ五輪やデビス杯日本代表も務めた。日本テニスの黎明(れいめい)期に活躍した名選手は68年8月16日、故郷の大牟田市で77歳の生涯を閉じた。
(2011年5月17日付日刊スポーツ紙面より)
[2012年7月18日15時46分]
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