日本が挑む100年目の五輪、ロンドン大会が目前に迫った。1912年のストックホルム大会に日本が初参加してから1世紀、「五輪100年の記憶」として歴史を振り返る。【荻島弘一編集委員】
勲章なき国民的英雄/競泳・古橋広之進氏
- 52年6月 ヘルシンキ五輪水上最終予選で力泳する古橋(手前)
<1952年ヘルシンキ大会>
今から60年前の52年ヘルシンキ大会、日本中の期待を背負って出場した「フジヤマのトビウオ」古橋広之進氏は、競泳400メートル自由形で8位に終わった。世界記録を33回更新し、戦後復興のシンボルとなった国民的ヒーローは、結局五輪のメダルを1つも手にすることなく現役を退いた。
50年の南米遠征でかかったアメーバ赤痢の影響もあった。45日間で20試合、サーカスのような転戦。各国の日系人から歓迎され、水泳ニッポンの「顔」は休むことも許されなかった。その後も体調は戻らず、52年の選考会は得意の1500メートルを回避し、400メートルも3位での代表入りだった。
古橋氏とともに戦後の水泳界を引っ張った橋爪四郎氏(83)は「ヒロさん(古橋)にメダルをとらせたかった」と話す。悔やむのは800メートルリレー。アンカーで米国に逆転され、2位に終わった。橋爪氏は「なぜヒロさんを使わなかったのか。200メートルなら泳げた。金メダルがとれた」。もちろん、エース起用案もあった。藤田明監督は五輪後の水連機関誌で「好調時の古橋ならアンカーを任せて勝てただろう。400メートル自由形予選で判断した」と苦しい決断を振り返った。
日本選手団主将として国民の期待に応えられなかった古橋氏は、責任を感じていた。帰国のバスに全員が乗り込んでも、1人だけ部屋に閉じこもった。「やるだけやったんだ、帰ろう、と30分ぐらい説得した」と橋爪氏。盟友を気遣った同氏は、1500メートルで獲得した銀メダルを1度も表に出さなかったという。
その後、古橋氏は競泳チーム主務、コーチ、監督、さらに日本選手団団長や国際水連役員として、08年北京まで五輪にかかわった。戦後、日本が参加した14大会すべてに参加したのは、同氏だけだ。48年ロンドン大会は出場が認められず、52年大会は結果を残せなかった。五輪に恵まれなかったからこそ、古橋氏はその後の人生を五輪にささげたのかもしれない。
◆古橋広之進(ふるはし・ひろのしん)1928年(昭3)9月16日、静岡・雄踏町(現浜松市西区)生まれ。雄踏小で水泳を始め、太平洋戦争で中断したものの日大進学後に再開。48年ロンドン五輪と同日に行われた日本選手権1500メートル、400メートル自由形で世界新。翌49年の全米選手権でも世界新を連発し「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。引退後は日本水連会長や日本オリンピック委員会(JOC)会長、国際水連副会長などを歴任した。09年8月、世界選手権の行われていたローマで急逝。80歳だった。
(2011年6月7日付日刊スポーツ紙面より)
[2012年7月21日13時56分]
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