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コラム Nikkan Olympic Column
名言はこうして生まれた 五輪コラム

名言はこうして生まれた

 ドラマの数だけ言葉が残った。ロンドン大会で100年を迎える日本の五輪挑戦史、多くの選手たちが勝って笑い、敗れて泣いた。記録と記憶をつなぐ「言葉」を、当時の感動とともによみがえらせる。【編集委員 荻島弘一】

「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」

「栄光への架け橋だ」の名実況で体操男子団体を伝えたNHK刈屋富士雄アナウンサー
「栄光への架け橋だ」の名実況で体操男子団体を伝えたNHK刈屋富士雄アナウンサー

<体操男子団体・NHK刈屋富士雄アナウンサー~2004年アテネ五輪~>

 体操ニッポンが、かつての輝きを取り戻したのは04年、アテネ大会だった。60年ローマ大会から五輪5連覇の男子団体が、28年ぶりに金メダルを獲得。NHKアナウンサー刈屋富士雄の「伸身の新月面が描く放物線は…」は、テレビ放送史に残る実況となった。

 刈屋 今でも聞かれるのは「あの言葉は、いつ考えたんですか?」なんです。もちろん、最初から考えていたわけじゃない。いつと言われても分からない。もともと「栄光」という言葉は頭になかった。勝たなければ、金メダルじゃなければ使えないですから。

 1位で通過した予選から中1日、決勝を前にして刈屋は悩んでいた。予選1位だと、決勝では演技順が最後。日本が最後の鉄棒を始める時は、他国は終わっている。最終演技者の冨田の時には、ほぼ順位が決まっていることになる。ただ、楽観的に「金メダルだ」とは思えなかった。競技を熟知するからこそ、より考えることは多くなった。

 刈屋 プレッシャーでしたね。日本をどう評価するか。正直、(優勝は)中国だろうと。うまくいけば銀はあるけれど、ハム兄弟のアメリカも強い。現実的にはルーマニア、韓国との銅メダル争いかなと。時間を割いたのは、メダルを逃した時の評価です。4位だと「復活」とは言えないけれど、3位との差が小さければ「復活間近」の評価はできるかなと考えました。

 最初の床が終わった時点で7位になった日本だが、その後は好得点を連発して徐々に順位を上げる。中国や米国などライバルのミスもあって、最終の鉄棒が始まる時点ではメダルがはっきりと見えていた。

 刈屋 2人目の鹿島の得点が出た時に「復活への架け橋」という言葉が使えると思った。直後に金メダルに必要な得点が8・962だと知って「栄光」という言葉が浮かんだ。では、どこで金メダルが決まるか。離れ技のコールマンが終わった時点で点数は9・6になる。そこから着地で失敗しても大過失でマイナス0・5。姿勢欠点があってもマイナス0・1。つまり、金メダル確定はコールマンが成功した時なんです。

 冨田がコールマンに入る直前、刈屋は「これさえ取れば」と叫んでいる。そして「取った」と続ける。鉄棒を「取った」の言葉の中には金メダルを「取った」の意味も込められていた。本人も認める絶叫に近い声だった。後は、演技する冨田同様に、どうフィニッシュを決めるかだった。

 刈屋 考えたのは、金メダルを取ったことを日本にどう伝えるか。1秒でも早く報告したかったし、着地をしちゃうと誰も僕の話なんか聞いてくれない。考えていたのは「復活への架け橋」だったけど「復活どころじゃないぞ」と。それで「栄光の架け橋」に変わった。過去の栄光と未来、それをつなぐのが冨田の伸身の新月面だったんです。

 ここで、予想外のことが起きた。冨田のフィニッシュへの入りが、1回転多かったのだ。急きょ「伸身の新月面」と「は栄光への架け橋だ」の間に「が描く放物線」を入れた。仮に、冨田が着地で尻もちをついても、金メダルだった。しかし、着地がピタリと決まったことで、言葉の輝きも増した。日本チームの主将だった米田は振り返る。

 米田 今でも、よく「ああ栄光への架け橋の」と言われます。競技は忘れられても、言葉があるから覚えてもらえる。刈屋さんは、すごく取材してくれたし、体操のこともよく分かってくれていた。だからこそ、あのフレーズが出たんでしょう。すごく思いのこもった言葉だと思います。

 51歳の刈屋は過去8回五輪の取材をしている。しかし、意外なことに金メダル実況は、この体操と06年トリノ冬季五輪の「オリンピックの女神は、荒川静香にキスをしました」の2回だけだという。それでも、わずかな可能性にかけて準備するからこそ、日本人の心に残る言葉が出てくる。

 刈屋 その言葉が残ろうが、残るまいが、スポーツアナウンサーとしての哲学は視聴者と現場を結ぶ、現場の空気感を伝えるということだけです。言葉は不思議で、その瞬間に出たから伝わる。1分ずれると伝わらない。命があるんですかね。ただ、事前の取材をしないと、言葉にたどりつくことは不可能なんです。

 実は、この時には用意していた別の言葉があった。冨田の得点が出た後の「体操ニッポン、日はまた昇りました」。96年アトランタ五輪団体10位で、外国のコーチに「日本は沈んだ。もう昇らない」と言われた悔しさから、いつか言おうと決めていたのだ。そんな刈屋は、ロンドン五輪にも期待する。「簡単ではないけれど、切り札がいますから」。エース内村が再び「栄光の架け橋」を架けることを信じて。(敬称略)

◆刈屋富士雄(かりや・ふじお) 1960年(昭35)4月3日、静岡・御殿場市生まれ。早大時代は漕艇(ボート)部で活躍し、83年にNHKに入局する。スポーツ中継の看板アナウンサーとして、主に大相撲、五輪などを担当。昨年6月から解説委員を兼務する。

(2012年3月1日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月8日19時17分]



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