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コラム Nikkan Olympic Column
名言はこうして生まれた 五輪コラム

名言はこうして生まれた

 ドラマの数だけ言葉が残った。ロンドン大会で100年を迎える日本の五輪挑戦史、多くの選手たちが勝って笑い、敗れて泣いた。記録と記憶をつなぐ「言葉」を、当時の感動とともによみがえらせる。【編集委員 荻島弘一】

「ああ、もう中量級はコリゴリだ」

全日本選手権決勝で岩田久和(右)を攻める関根忍(1972年4月29日)
全日本選手権決勝で岩田久和(右)を攻める関根忍(1972年4月29日)

<柔道・関根忍~1972年ミュンヘン五輪~>

 誰もが夢見る金メダル。手にしたほとんどが「人生が変わった」と言う。しかし、72年ミュンヘン五輪中量級(80キロ以下)を制した関根忍は違った。金メダルを「おまけ」と言い「恥ずかしいメダル」と振り返った。決勝戦直後、青白い顔で肩で息をしながら口にしたのは「ああ、もう中量級はコリゴリだ」だった。

 関根 うれしくなかったですね。(同年の)全日本選手権とった時の方が、うれしかった。柔道は勝って当たり前という時代だし、負けたら大変。まして全日本チャンピオンですから、負けられないですよね。

 この年の4月、中量級選手としては岡野功以来の全日本王者になった。五輪も優勝確実だった。しかし、5回戦で韓国の呉勝立に敗れ、敗者復活戦を何とか勝ち上がって決勝で再戦した(当時は敗者復活戦から決勝に進めた)。残り30秒、劣勢を逆転する体落としで旗判定2-1勝利。喜べる内容ではなかった。

 関根 コーチ陣は全員不満そうな顔だし、喜んだら怒られそうでしたね。スタンドの7割くらいを占めた日本人応援団からは「何やってんだ」「全日本王者のくせに」とやじですよ。

 在日で天理大でも活躍した呉とは、過去2戦2勝。負ける相手ではなかった。苦戦の原因は負傷と減量。全日本を勝った後の5月に左ひざの靱帯(じんたい)を切り、満足に練習できないまま現地入りした。練習不足で、81キロだった体重は85キロに増えていた。

 関根 今と違ってリハビリもいいかげんだし、減量も適当。選手村に入って1週間、食べずに減量しました。それで、落ち過ぎちゃって。体が軽いんですよ。ケガは治っていると思っていたけど、踏ん張りもきかなかったんですからね。

 「コリゴリだ」に続いて口にしたのは「全日本選手権の時なら連中の技なんてどうってことはない。しかし、今日は体が軽く、すぐふわっと浮いてしまうから弱ったです」。体重は何と75キロ。これでは力が出るはずなどなかった。

 もともと、五輪など考えていなかった。目標は全日本だけだった。64年東京五輪では、同じ中大で高校時代ライバルだった岡野が優勝したが「自分も」という考えは少しもなかった。

 関根 120%なかったですね。試合はテレビで見たけど、自分とは関係ない世界だった。全日本は、自分と同い年の岡野さんや佐藤(宣践)さんが活躍していたから、1度は3位ぐらいに入りたいなと。全日本優勝まで、ミュンヘンで柔道があることさえ知らなかったですから。たまたまオリンピックの年の全日本に勝っただけなんですね。

 64年東京五輪で初採用された柔道は、68年メキシコ大会では実施されず。ミュンヘンでは6階級で復活した。しかし、五輪の柔道はまだ一般的ではなく、特に体重無差別が当たり前の柔道界では、階級制の五輪は受け入れられなかった。

 関根 全日本勝者が世界一の時代だったし、私もそれで満足していた。ところが、オリンピックがあると聞いて。怒られちゃうかもしれないけど「おまけ」みたいなもの。東京の時は地元で盛り上がったけど、ミュンヘンは遠いし「行くの?」という感じでした。

 ミュンヘン大会の金メダルは13個。男子バレーボールに競泳2、体操5、柔道3、レスリング2だった。最も注目されたのは男子バレー、黄金時代を築いていた体操も人気だった。しかし、無差別級でルスカ(オランダ)に優勝を奪われた日本柔道は「本家完敗」のイメージが強かった。

 関根 羽田空港に着くと「金メダリストは並んで」と言われて。メダルを胸にタラップを下りるのは、男子バレーが先頭。次が田口さんら水泳で、柔道は最後でしたね。会見でも質問されるのはバレー、水泳、体操ばかり。我々は最後まで誰も質問されず、隅っこに立っていただけですよ。

 金メダルを持ち帰っても、周囲の変化はなかった。職場の仲間は喜んでくれたが「1日だけ」。地元大洗町のパレードも「平日の昼間じゃ人なんか集まりませんよ」。金メダルは今、自宅に「投げてある」。飾られたこともないという。

 関根 オリンピックには「出場を目指して競技を続ける人」と「競技を続けていたら出ちゃった人」の2通りがいると思うんです。私は後者。でも私が全日本チャンピオンのくせに苦戦したから、それまで軽視していたオリンピックを重視するきっかけになったかもしれませんね(笑い)。

 謙虚な性格そのままに自嘲気味に話した。ただ、その後五輪柔道の位置づけが大きく変わっていったのは確か。重量級以外で古賀稔彦、谷亮子ら五輪のスターが生まれた。「もうコリゴリ」と言わせてしまうほど柔道が五輪に根付いていない時代があったからこそ、今の五輪柔道の隆盛がある。(敬称略)

◆関根忍(せきね・しのぶ) 1943年(昭18)9月20日、茨城・大洗町生まれ。那珂湊一高から中大を経て警視庁入りし、72年の全日本選手権、ミュンヘン五輪中量級で優勝。全柔連強化委員、審判委員長などを歴任し、現在は平成国際大師範、都柔連副会長。

(3月15日付日刊スポーツ紙面より)

 [2012年7月12日14時9分]



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