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コラム Nikkan Olympic Column
爲末大学 オリンピックを考える 五輪コラム 爲末大学 オリンピックを考える

 五輪に3度出場、世界選手権で2度銅メダルを獲得し、先ごろ引退したばかりの侍ハードラーが、独自の視点から五輪を斬る。社会派アスリートが現地で 見て、感じた世界最高峰の戦いを語る。

自分のために競技してほしい

 今回、特に柔道の選手たちが試合後に、「勝てなくてすいませんでした」とインタビューに答えているのをよく目にした。日本のお家芸としての期待や、必ず金をとらなければならないという思いから発される言葉なのかもしれないけれど、そこに僕自身、元選手として複雑な思いを抱いている。

 五輪選手ほどになると、それまでの人生でたくさんの人に支えられてここまでたどり着いている。強化選手は専用の施設を使い、遠征や強化に国税が投入されていて、当然そこに税を注ぐからには国民は何かの見返りを期待している。

 人間のモチベーションや創造性というのは、やりたいことをやっている時に最も大きくなる。気がついたら時間がたっているというような集中を誰もが経験したことがあるだろうけど、そういうものは決まって自分の好きなことをやりたいようにやっている時に起きる。

 反対に義務というのは、単純な作業を繰り返す時にはそれなりに効果があるけれど、創造性を発揮したりモチベーションを保つ時にはマイナスになったり力みを生む。今やろうと思っていることを、誰かに命令された途端にやる気がうせた経験はないだろうか。人は強制されたり義務づけられた時に、やりたいという気持ちから、やるべきという方向に気持ちが変わる。

 五輪選手はほっておいても、ただでさえ期待をされる。それ自体は素晴らしいことなのだけれど、選手本人がその責任を負いすぎたとき、勝利は義務になり、動きに力みが出る。普通の種目でもすごい重圧がかかるのだから、ましてやお家芸の柔道選手にかかる期待は計り知れない。

 すいませんという言葉の裏には、果たすべき役割を果たしきれなくてすいません、という意味が込められていると思う。でも、きっと本当はその前に自分自身が悔しいですという思いがあるんだと思う。何しろここまで頑張ってきたのは他ならぬ自分で、一番勝ちたかったのも他ならぬ自分だからだ。そして、もう1度挑むにはまた4年間同じ苦しみの中で努力しないといけない。

 月並みなことだけれど、選手たちにはどうか自分のために競技をしてほしいと思う。それが何より国民が望むことだし、そうやってのびのびと競技をすることで十分に責任は果たしているのではないか。そして皮肉なことに、自分のためにやっていると視点が切り替わった途端に動きが軽くなったりすることは確かにある。背景はいろいろあるけれど、選手1人1人にとって五輪は誰のものでもなく、自分のものだという視点で競技を楽しんでほしいと、僕は思う。

 [2012年8月5日9時49分 紙面から]



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