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平岡銀 日本メダル1号/柔道

準決勝でベルデに一本勝ちした平岡は雄たけびを上げる(撮影・たえ見朱実)
準決勝でベルデに一本勝ちした平岡は雄たけびを上げる(撮影・たえ見朱実)

<ロンドン五輪:柔道>◇28日◇男子60キロ級

 平岡、惜しい銀!! 平岡拓晃(27=了徳寺学園職)が銀メダルを獲得した。男子柔道60キロ級決勝でアルセン・ガルスチャン(ロシア)に開始41秒、払い巻き込みで一本負けを喫したが、日本人メダル1号となった。4年前の北京五輪では初戦で敗退。どん底まで落ちた男が、準々決勝での逆転勝利で勢いづき、決勝まで進出。悲願の金まではあと1歩、届かなかったが、五輪メダルを手にした。

 最後は競り負けた。平岡がガルスチャンの内股を逃れ、すくい投げを仕掛けたが「一瞬の判断が甘かった」。直後に払い巻き込みを受けた。いったん技ありとなったが、主審は副審2人と協議。開始41秒、平岡の一本負けに変更された。「何で勝てないのだろう」。目を潤ませて悔しがった。しかし、金メダル候補の女子48キロ級の福見が5位に終わった中、平岡が日本人メダル1号となった。

 初戦の2回戦と3回戦を危なげなく突破した後、準々決勝でピンチを迎えた。ミルー(フランス)に指導2つを受け、劣勢のまま残り7秒、小内刈りで有効を奪取。辛うじて延長に持ち込んで判定勝ちし「1度死んだと開き直った」。準決勝ではベルデ(イタリア)に一本勝ちし、勢いづいたはずだった。

 4年前、五輪4連覇を狙う野村忠宏を推す声を抑えて、北京五輪代表に選ばれた。しかし直前に左膝と脇腹も痛めた上に気負いもあった。結果は初戦の2回戦負け。5分間で終わった。「野村を出しておけば」。耳の痛い言葉だった。さらに苦難は続いた。

 08年秋、痛めた脇腹に骨腫瘍が見つかった。12月の手術には母雅子さんも駆けつけてくれた。だが、その前日に母も乳がんの手術を受けていた。直前まで知らされず、無理をして来てくれた。苦難続きに「オレが北京で負けたせいでは」と思い詰めた時期もあった。

 先輩の言葉に救われた。井上康生コーチから「野村さんを出せと言う人もいるけど、お前の頑張りを知らないからだ。まったく気にするな。柔道やめるなよ」と長いメールが届いた。女子78キロ超級の塚田真希さんには「あんたが日本の60キロ級を引っ張っていかなきゃダメだからね」と激励されて泣いた。現実を見つめて立ち直ろうとした。

 11年1月には真汐夫人と結婚。6月に長女花菜(はな)ちゃんも誕生した。母に代わり、妻に減量食を考えてもらった。筋力トレーニングの成果もあって、体脂肪率が3・2%の時期もあった。減量もスムーズだった。家にはA4用紙で「ロンドン五輪で金メダル」と張り「断固たる決意」とも書いていたが、その強い思いは届かなかった。「ロンドンの畳で試合ができたのは、4年前に『何で平岡を出したんだ』と言ってくれた人のおかげ。4年後は今の段階では次、頑張るとは言えない」。悔しさをにじませた平岡だが、その胸にある銀は今大会で日本最初のメダルとして輝いた。

 ◆平岡拓晃(ひらおか・ひろあき)1985年(昭60)2月6日、広島市生まれ。柔道経験のある父宣好さんの影響で6歳から柔道を始める。近大福山高-筑波大-了徳寺学園職。08年北京五輪は、五輪3連覇中だった野村忠宏を抑えて出場するも、直前に膝を痛めて初戦2回戦敗退。世界選手権は09年銀、10年銅、11年銀メダル。得意技は背負い投げ。家族は妻真汐さんと長女花菜ちゃん。160センチ。

 [2012年7月29日8時54分 紙面から]



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