沢代表引退…葛藤続け「最後」/サッカー
<ロンドン五輪・サッカー:日本1-2米国>◇9日(日本時間10日)◇女子決勝◇ロンドン
なでしこジャパンのエース沢穂希(33=INAC神戸)が代表引退を決意した。目標の金メダルにはあと1歩届かなかったが、銀メダルを胸に、完全燃焼した。「悔いなくやりきりました。これで最後にします」。晴れやかな笑顔で決勝の米国戦後に代表活動を終えることを明言した。代表生活20年目。家族、仲間、ライバル、すべての人への恩返しを胸に戦ってきた。日本女子サッカー界のパイオニアとして、現役生活を続けながら、女子サッカーの普及、発展のためにピッチ内外で走り続ける。
8万203人の大観衆は、聖地ウェンブリー競技場で沢のプレーを見届けた。いつもの沢と同じ、球際で激しく。代表最後の試合で、自分のプレースタイルをやり抜いた。
0-2の後半18分、大野のクロスに走り込んで右足で合わせるが、DFにブロックされる。転倒するが、得点のにおいに沢が反応する。体勢を立て直し再び突進。相手がクリアする間際、左膝をぶつけてはじき、大儀見につないだ。佐々木監督は言った。「沢は今日が完全復活。まだまだできると思ったよ。攻守の切り替えが素晴らしい」。代表生活最後の、印象に残るプレーだった。
時間は待ってはくれない。ロスタイム2分は過ぎ、主審の笛が響く。跳びはねる米国選手。沢は天を見上げ、スタンドを向いた後、淡々と仲間のもとへ歩み寄った。宮間は泣き崩れ、立ち上がれない。精根尽き果てピッチに倒れた。沢は仲間、1人1人に「ありがとう」と声をかけて抱擁した。
決勝戦にふさわしい試合だった。見応えのある攻防の末、負けた。沢の夢、金メダルはついえた。それでも、歩いてきた苦難の道は、今も栄光へと続く。
沢 ずっと目標は金メダルですけど、自分の中では悔いなくやりきった。今大会でやりきれたので後悔はない。最高の舞台で、最高の仲間、最高のスタッフ、最高の相手と、最後にやれた。本当に楽しかった。これで最後にします。
試合が終わると、取材ゾーンで、ゆっくりと1つ1つの言葉を確かめるように、はっきりと言葉にした。代表引退。女子サッカーの大きな象徴が、自分で下した決断だった。
大会開幕前から、心の中で決意を固めていた。カナダ戦を控えた22日の練習後。強い西日を背に思いを明かした。「正直、代表の練習で100%をずっと続けるのは厳しくなってきた。体力的なことや、日程的なことなど。メダルがとれたら、これで終わりにしてもいいかなって思う」。腕をストレッチしながら、淡々と話した。「現役は続けるよ、サッカー楽しいしやめる理由はないから」。
そしてカナダ戦。沢の動きはキレていた。運動量、ゴールへの意欲、DF力も健在。W杯でMVPを獲得した時に戻っていた。試合後「だからここに合わせるって言ったじゃないですか」と、はじける笑顔で胸を張った。
同時に「やっぱりこの青いユニホーム着て戦うのってすごく楽しすぎる。もっと続けることできるかなって思っちゃってる。気持ち変わるかも。なんか恋人にまた会ったみたいなドキドキ感。このドキドキ感を1分1秒でも長く味わいたい」。体が動き、決めていたはずの決意は揺れる。
中2日でのスウェーデン戦、体は重かった。0-0での途中交代。悔しさを顔に出した。「ノリさんに悪いことしたかな」。翌30日、反省の表情だった。
31日の南アフリカ戦は完全休養。そして、正念場、3日の準々決勝ブラジル戦に2-0。「絶対負けない気がする。メダルとれる。まだ分からないけど結果がでれば、悔いなく終われそう」。取材ゾーンの最後で、自分の心と向き合った。
6日の準決勝フランスに勝ちメダルは確定。だが笑顔はない。「ここまで来たら絶対金メダルがほしい。欲が出てきた。私の気持ちはたぶん変わらない。でも明後日の練習でもう1回(自分の気持ちを)確認したい。私自身もどうしたいのか、わからなくなっている」。ウェンブリーの地下、バスに乗り込む直前、テンションは上がり、高揚していた。
決勝戦前日の8日。「とにかく明日しっかり戦ってみたい。本当にどうしよう」。W杯の時、54キロあった体重は2キロ減っていた。
代表引退を胸に秘め、自分の気持ちと、自分の体力と、自分の役割を考えてきた。最後、ウェンブリーで代表引退を決めた後、左手で軽く手を振ってバスへと消えた。もうやるだけやった。15歳で代表初招集されてから、いつかこの日が来ると分かっていた。自分の心に踏ん切りをつけるため、五輪の最中に必死で悩んだ19日間だった。
この日、スタンド1階席の最上段に、喜びを共有したい人がいた。母満壽子(まいこ)さん。振り返るのは99年1月。母は迷う沢にこう言った。「チャンスの波にのりなさい」。
読売ベレーザ(現日テレ)からプロ契約を解除され、米国プロリーグか、国内に残るかで迷っていた。母の言葉は心に刻まれた。「今でも何か迷ったり決断を迫られたときには常に頭の中にある言葉です」。
沢は、その母に1つの約束をした。「必ずロンドン五輪の金メダルをかけてあげるね」。W杯が終わり、初めて東京・府中の実家に戻ったのは、今年1月。久しぶりに母と2人の1週間だった。母のおせち料理が大好物。とくに数の子には目がない。関西風の薄味と、関東風の濃いお雑煮。2種類をすすりながら会話は弾んだ。母は「とにかく自分が納得のいくまでサッカーを続けなさい」と激励された。
母が寂しい思いをしているのは知っている。良縁があれば結婚もいつかは…と願っていることも。病気のことも母が過剰に心配するから「大丈夫、心配しないで」と伝え、詳細は言わなかった。
小2で大阪から府中に戻ってきた。転校直後は上履きをカッターで切られたこともあった。小4では「女のくせに」と試合中に罵倒された。母は「サッカーで有名になって見返してやりなさい」。いつも盾となり、常に背中を押してくれた。
中3の時に両親が離婚。思春期にいきなり訪れた衝撃に心は揺れ動いた。恨んだこともあった。だが父靖邦さんは沢の大学の費用を負担してくれるなど、一緒にはいなくとも人生を支えてくれた。「今は父にも感謝の気持ちでいっぱい。私のお父さんは1人しかいないし、大切な存在。陰ながら応援してくれています。私は両親に金メダルをかけてあげたいです」。6日の準決勝後に話した。
表彰式後、ピッチサイドの母を見つけ、ニコッと笑って駆け寄った。ポニーテールの髪にひっかからないように首から銀メダルを外す。優しくほほ笑む母の首に「ありがとう」の言葉を添えてそっとかけた。
沢 今回も遠いロンドンまで来てくれた。いつも感謝の気持ちでいっぱいです。金色をかけてあげたかった。でもこうしてオリンピックのメダルを母親にかけてあげられたのは本当によかった。これで少しは恩返しになったかな。
なでしこのユニホーム姿の母にメダルをかけた。その姿をまぶたに焼き付けて、沢の代表生活は幕を閉じた。目の前には女子サッカー普及への「チャンスの波」が広がる。銀メダルを手に、沢はまたその波をつかまえようと走りだす。【鎌田直秀】
◆沢穂希(さわ・ほまれ)1978年(昭53)9月6日、府中市生まれ。府ロクサッカークラブで小2からサッカーを本格的に開始し、91年読売ベレーザ(現日テレ)入団。99年にデンバー・ダイヤモンズに移籍し米国デビュー。00年アトランタ・ビート移籍後、04年に日テレ復帰。09年にワシントン・フリーダムで米復帰。その後移籍を繰り返し、昨年1月にINAC神戸移籍。今大会で五輪は4度目。W杯5度。昨年はFIFA女子年間最優秀選手賞受賞。国際Aマッチ186試合出場81得点。165センチ、54キロ。血液型AB。
[2012年8月11日7時16分 紙面から]
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